日本野球発祥の地碑

日本野球発祥の地碑

東京都千代田区神田錦町3丁目、学士会館の敷地内に立つのが、日本野球発祥の地碑。平成15年に建立されたモニュメントで、明治5年、第一大学区第一番中学(現在の東京大学)で教鞭をとったアメリカ人教師のホーレス・ウィルソン(Horace Wilson)が生徒に、日本で初めて野球を教えた地なのです。

アメリカ人教師ウィルソンが生徒に野球を伝授した地

日本野球発祥の地碑

明治5年5月頃、お雇い外国人のホーレス・ウィルソンは、英語や普通学(外国語による一般教養)を教える傍ら、生徒にベースボールを教えたのが日本での野球の始まり(野球という訳語を生み出したのは正岡子規とされ、明治23年、自身の幼名である升・のぼるにひっかけて野ボール、さらに野球にしたといわれています)。

第一番中学(学制における中学校)は、明治6年4月に専門学校としての(第一大学区)開成学校となり(同時に教授言語は原則として英語に統一)、運動場の完成とともに攻守に分かれてベースボールができるようになりました。
これが実質的な「日本の野球の始まり」ということに。
明治9年には、ウィルソンが3番・レフトで出場する外国人チームと、ウィルソンの教え子たちのによるForeigners vs Japanese(外国人 対 日本人)という日本初の「国際試合」も開催され、34対11という乱打戦になっています(7回裏まで実施)。

開成学校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、日本に野球が定着したのです。
こうした野球を伝えた功績を称え、平成15年に「新世紀表彰」として野球殿堂入りし(正岡子規も平成14年に野球殿堂入り)、同時に日本野球発祥の地碑が立てられたのです。

明治4年10月31日、横浜居留地265番地(現在の横浜中央病院付近)のスワンプ・グラウンド(swamp=沼地)でアメリカ軍艦コロラド号船員VS横浜居留地在住の外国人の試合が、歴史に残る日本初の野球ですが、外国人同士の試合で、日本に伝来していないので、普及する元になったのは、ホーレス・ウィルソンの伝授ということに。
ただし、明治4年8月に来日したリロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes)が熊本に開校した熊本洋学校で、着任すぐにベースボールを教えていたとすれば、こちらが日本初ともなりますが、全国伝搬というわけではないので、やはり、ホーレス・ウィルソンということに。

学士会館の前には、東京大学発祥の地碑も立っていますが、明治10年4月12日、東京開成学校と本郷元富士町にあった東京医学校が合併して、この場所に東京大学が創立(法、理、医、文4学部と予備門を有した日本で初めての近代的な大学)。
学士会館は、旧帝国大学(現在の国立七大学=北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学)出身者の親睦と知識交流を目的とした場として学士会が設立され、その会館として大正2年に誕生。
現在の建物は、昭和3年築で、昭和11年の2・26事件の際には、第14師団東京警備隊司令部が置かれています。
現在は一般の宿泊、レストランの外来利用も可能。

日本野球発祥の地碑
名称 日本野球発祥の地碑/にほんやきゅうはっしょうのちひ
所在地 東京都千代田区神田錦町3-28
関連HP 千代田区公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ・都営地下鉄神保町駅から徒歩2分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
東京大学発祥の地碑

東京大学発祥の地碑

東京都千代田区神田錦町3丁目、結婚式にも使われる学士会館の前に立つのが、東京大学発祥の地碑。東大は本郷キャンパスが有名ですが、明治10年4月12日、東京開成学校と本郷元富士町にあった東京医学校が合併して、この場所に東京大学が創立しています。

高校野球発祥の地碑

高校野球発祥の地碑

大阪府豊中市玉井町3丁目、高校野球発祥の地記念公園の西エリアにあるのが、高校野球発祥の地碑。大正4年、第1回の大会が行なわれた豊中グラウンドの跡地が公園になったもので、門柱を再現したメインエントランスを入ったレンガウォールに豊中グラウンドの

 

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