徳川家康とその側近は、江戸入府後に湿地帯となっていた江戸の町周辺の治水事業に乗り出します。利根川は武蔵国北部では細かく乱流し、綾瀬川や荒川とも合・分流していて、洪水ごとに流路を変えるという状況だったのです。そこで考えだした大規模工事が「利根川東遷事業」。江戸湾に流れる利根川を銚子を河口とする東遷事業です。
徳川家康の命で、忍城主・松平忠吉が東遷事業を開始!
文禄元年(1592年)、徳川家康の命で、忍城主・松平忠吉(まつだいらただよし=徳川秀忠の弟)は、会の川の締め切り工事を始めます。
工事(利根川東遷第一期工事)以前の利根川はこの地点で2つに分かれ、川の主流は南に(加須市志多見、加須市、騎西町、久喜市、白岡町を流れ蓮田市笹山で元荒川へ合流=現在の会の川)もう一方の日川(一部は古川落、新川用水・騎西領用水、日川水路として現存)は東に流れていました。忍城主松平忠吉は家老・小笠原三郎左衛門に命じて、南に流れる川の主流を締め切り、利根川の流路を変えたのです。
新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、文禄3年(1594年)に利根川本流を東流させたと伝えられています。
あまりに大規模な工事、そして『新編武蔵風土記稿』に「水勢はげしかりしに」と記される激流をさえぎる難工事だったため、旅の行者が人身御供として入水したという伝説も残されています。
武蔵国の新田開発と水害防止を兼ねた最初の大規模な河川改良工事が始まったのです。
埼玉県羽生市(はにゅうし)上新郷の道の駅「はにゅう」構内には「川俣締切跡」の碑が立っていますが、昭和橋周辺の工事により、上川俣地区の利根川堤防下(埼玉県指定史蹟川俣締切阯)から移築されたもの。
古代の豪族も注目した利根川
かつての利根川主流だった会の川は、昭和7年から昭和13年にかけて実施された埼玉県の河川改修事業で7ヶ所に取水堰が設置された農業用水路(用排水兼用)に変貌を遂げています。
改修事業で建設された古い橋梁が現存し、「会の川の橋梁群」として土木学会の「日本の近代土木遺産」にも認定されています。
羽生市には全長78mで、埼玉県下で10番目の大きさの前方後円墳である永明寺古墳(ようめいじこふん/6世紀初頭の築造)があり、御廟塚古墳、稲荷塚古墳、そして浅間塚古墳とともに村君古墳群(むらきみこふんぐん)を形成していますが、この古墳群は利根川の自然堤防上に形成されています。
景行天皇55年に東山道15国の郡督に任命され赴任した豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫、彦狭島王(ひこさしまおう)関連の墳墓という伝承がありますが、古代の豪族が利根川の舟運を利用できる地に居住したと推測できます。
『日本書紀』にも彦狭島王の東山道15国郡督任命の記載がありますが、東山道を任官地を目ざして東に進む途中、春日穴咋邑(かすがあなくひのむら)で病没したと記されています。この穴咋邑に関しては、特定されていませんが長野県佐久市望月町春日(古代の東山道が通ります)で、内裏塚古墳が彦狭島王の墓と伝えられています。
他にも大和国添上郡穴次神社(奈良市古市)説もありますが、東山道を進んで、奈良に至るというのは少し無理があるような気がします。
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