縄文時代に、現・福井県では大陸伝来の植物を栽培! アフリカ原産のヒョウタンも

鳥浜貝塚

縄文時代のイメージは、動物を捕獲する狩猟生活、そして海岸での漁労ですが、福井県三方上中郡若狭町にある縄文時代の遺跡、鳥浜貝塚からは、そんな常識を覆す植物遺体が見つかっています。「縄文のタイムカプセル」と称される遺跡から大陸から伝来したと推測できるヒョウタンの植物遺体が出土しているのです。

低湿地帯にある鳥浜貝塚は「縄文のタイムカプセル」

鳥浜貝塚

鳥浜貝塚は、縄文時代草創期から前期(1万2000〜5000年前)の集落遺跡で、形成されるムラは、縄文時代前期の6000年〜5500年前が最盛期だったことがわかっています。
低湿地帯にある遺跡ということで、通常は土の中で腐食して残りにくい遺物が、水のなかに保存されたような状態で発見されたことで、「縄文のタイムカプセル」ともいわれています。

この鳥浜貝塚における昭和37年から始まった発掘調査で、縄文時代、縄文文化のイメージを一変させたのです。
本来腐敗して残存することのないはずの草木類・種子類などの植物性の遺物が、25万点という膨大な量が出土。
鳥浜貝塚の出土品を調査、研究することが、日本人の「事始め」の解明にもつながるというわけなのです。

昭和53年の発掘調査ではココヤシが出土していますが、温暖な縄文時代でもココヤシの栽培は考えられないので、日本海を北上する対馬海流に乗って「名も知らぬ遠き島より」流れ着いたものだと推測できます。
島崎藤村は民俗学者の柳田國男から愛知県の伊良湖岬にココヤシが漂着する話を聞き、有名な『椰子の実』を書いていますが、縄文時代にもそうした漂着があったことを裏付けています。

北方系、南方系の植物をムラの畑で栽培

縄文時代にはすでにヒョウタンが栽培されていた

注目は、鳥浜にあった縄文時代のムラで栽培された植物です。
北方系のゴボウ、麻、カラシナ・カブ・ナタネなどのアブラナ類、そして南方系のヒョウタン、リョクトウ、シソ、エゴマ、コウゾなどです。
リョクトウ、ヒョウタン、シソ、エゴマなどはもともと日本に自生しないもので、栽培植物。

ゴボウは、中国東北部で自生したものがシベリア経由で日本に渡来して、根菜となったもので、麻もシベリヤ経由での渡来と推測されています。

ヒョウタンは、なんとアフリカ原産。
日本以外でも有史以前の遺跡から出土することは多く、国内では9600年前の滋買県の津湖底遺跡、そして鳥浜貝塚の8500年前の地層からの出土が有名です。
中のものが腐りにくい、持ち運びに便利など容器として非常に優れていたため、縄文人も重宝したものだったのでしょう。

縄文時代に農業があったのかは意見が分かれるところですが、少なくとも、簡単な植物栽培が行なわれていたことは疑いありません。
ヒョウタンの栽培によって、乾燥させて水筒とすることで遠出が可能になり、行動範囲が画期的に広がったとも推測でき、海外との交易でもまずはこのヒョウタンの流入から始まったのかもしれません。

いずれにしろ鳥浜の縄文のムラに住む人々は、環日本海の大交流を活かして、北方系、南方系の植物を手に入れ、畑で栽培していたことは確実で、縄文の暮らしのイメージが「狩猟文化」と言い切ることができなくなってきているのです。

縄文人を単純な狩猟採集民として捉えるのは間違いで、物流ネットワークを構築し、帰化植物を栽培(有用植物の管理栽培)、複雑で豊かな精神文化を育んでいたと考えられているのです。

ちなみに日本人の全体でのゲノム(全遺伝情報)のうち縄文系の割合は平均で12.5%。
ヤマト王権のあった近畿地方に縄文ゲノムが少なく(9.8%)などの地域差はあるものの、誰もが縄文人の血を受け継ぎ、芸術家・岡本太郎の名セリフ「縄文の血が騒ぐ」にも科学的に立証されているのです。

縄文時代に、現・福井県では大陸伝来の植物を栽培! アフリカ原産のヒョウタンも
所在地 福井県三方上中郡若狭町鳥浜
場所 鳥浜貝塚/とりはまかいづか
電車・バスで JR三方駅から徒歩20分
ドライブで 舞鶴若狭自動車道三方五湖スマートICから約1km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ