【地図を旅する】vol.14 県をまたぐ横断で唯一、車道・鉄道がないのは、群馬・福島県境

群馬・福島県境

日本広しといえど、車道も鉄道もないのは、群馬・福島県境のみです。北アルプスで分断される長野県と富山県、長野県と岐阜県にも車道や鉄道が通じていますし、海岸沿いの移動手段の県境越えもあるので、実は「歩いて県境を越えるしか方法がない場所」は全国にだた1ヶ所という希少な存在です。

平野長靖の直訴と、大石武一の英断が車道建設を阻止

尾瀬沼の湖尻
尾瀬沼の湖尻、群馬・福島の県境です

群馬県と福島県の県境部分は、群馬県側が利根郡片品村、みなかみ町、福島県側が南会津郡檜枝岐村(ひのえまたむら)。
群馬・福島県境は、東端の黒岩山から赤安山(2051.0m)、袴腰山(高石山/2042m)、尾瀬沼、そして尾瀬ヶ原の真ん中を抜け、尾瀬ヶ原の端で新潟県境となるまで続いています。
車道建設の可能性があったのは、この尾瀬沼、尾瀬ヶ原のみですが尾瀬沼の東岸、県境近くに建つ長蔵小屋の初代主人・平野長蔵(ひらのちょうぞう=日本の自然保護運動の象徴的な存在)、そして2代目の平野長英、3代目で36歳の若さで吹雪の峠で遭難死した平野長靖(ひらのちょうせい)が3代にわたって尾瀬の自然保護活動に尽力。

とくに平野長靖の時代は、高度成長期で、群馬県側・大清水から尾瀬を抜け、福島県側の沼山峠に至る自動車道路が計画され、昭和41年に着工され、工事が始まっていました。
平野長靖は、昭和46年7月21日、その年の7月1日に発足したばかりの環境庁(現・環境省)に出向き、初代長官の大石武一(おおいしぶいち)に工事中止の直訴。
その直訴を受けて、直訴から10日ほど後に、大石長官は現地を数日にわたって視察し、尾瀬の貴重な自然を痛感。
「自然保護のためには蛮勇をふるいたい」という有名な言葉を残しています。

すでに群馬県が5億円を支出、国が10億円の補助金を出して工事は進行、群馬側の県道は尾瀬沼の手前にある三平峠の中腹まで迫り、岩清水も土砂に埋もれそうな状況にまでなっていたのです。
さらには建設促進派の田中角栄通産大臣、福島、新潟、群馬の各県知事は道路建設で一致していました。
大石武一は、こうした地元の圧力に屈することなく建設の中止を決定、これによって尾瀬の自然が守られることになったのです。

これを機に全国的に自然保護運動は盛り上がり、環境保護への機運も高まり、尾瀬から始まった「ごみの持ち帰り」も今では当たり前のことになったのです。
その年の暮、峠越えの道で遭難死し、36歳の若さでこの世を去った平野長靖。
「君のともした自然保護の火は、決して消えないだろう」(大石武一)。

尾瀬沼が見える丘に立つ平野長靖の墓には、

まもる
峠の緑の道を
鳥たちのすみかを
みんなの尾瀬を
人間にとって
ほんとうに大切なものを

と刻まれています。

地図をよく見てみると、群馬県沼田市と福島県会津若松市を結ぶ国道401号は尾瀬の部分で分断されています。
当時、田中角栄や、地元の知事たちが計画していた道路が開通していたら、尾瀬をこの国道が抜け、パーキングができていたことでしょう。

平野長靖の直訴と、大石武一の英断が、尾瀬の自然を守り、全国で唯一の車道のない県境が残されたのです。
当然、ここに車道が通じることは永久にありません。

尾瀬沼
燧ヶ岳から眺める尾瀬沼、かつてここに道路を通す計画が
【地図を旅する】vol.14 県をまたぐ横断で唯一、車道・鉄道がないのは、群馬・福島県境
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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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