一宮城

一宮城

徳島県徳島市一宮町にある中世の山城が、一宮城(いちのみやじょう)。南北朝時代に天然の要害を利用して築かれた城で、蜂須賀家政が阿波国入国後は徳島城の支城(阿波九城)として機能しましたが、元和の一国一城令で廃城になっています。続日本100名城にも選定。

徳島県内最大規模の山城は、続日本100名城に選定

北に吉野川水系の一級河川・鮎喰川(あくいがわ)が流れる標高140mほどの山上に築かれた山城で、北麓には大日寺(四国八十八ヶ所霊場第13番札所)があり、比高は110mほどあります。
本丸のある北城と南城に分かれ、居館を山麓に構えていました。

南北朝時代の延元3年・暦応元年(1338年)、阿波国守護・小笠原長房(おがさわらながふさ=三好氏の祖)の四男・小笠原長宗が、この地の一宮宗成を滅ぼし、一宮城を築いたのが始まり。
阿波国一宮・一宮神社(別当寺が大日寺)の分霊を城内に勧請し、自らも一宮氏を名乗りました。

南北朝時代には南朝に属したため、細川頼春、細川頼之らの攻撃を受け、戦場になりました。
ついに一宮城は細川氏に恭順し、一宮成行は北朝に下り、その後、細川氏の被官として生き延びています。
阿波国が三好氏支配になると、一宮氏は三好氏と姻戚関係を結びますが、細川氏との抗争の場になっています。

本能寺の変後、長宗我部元親が阿波国を平定、一宮城に南城を新たに増築。
羽柴秀吉の四国攻めでも主戦場となり、豊臣秀長が大軍を率いて攻撃し、ついに落城。
長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏すると、羽柴秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、一宮城を居城として近世城郭風に大改築しています。
現存する石垣などは、蜂須賀家政時代の遺構です。

蜂須賀家政は、不便な山城には見切りをつけ、天正14年(1586年)、近世的な徳島城を築城、一宮城には家臣・益田持正が城代として入城し、元和の一国一城令での廃城を迎えています。

城跡は、標高144mの最高所に位置する本丸を中心に、東西800m、南北500mの範囲に才蔵丸、明神丸、小倉丸、椎丸、水ノ手丸などの曲輪(くるわ)が配され、倉庫跡、畑跡、貯水池跡などが残されています。

一宮神社が登城口で、本丸まで徒歩30分。
ハイキング程度の装備は必要です。

ちなみに蜂須賀家政時代の「阿波九城」は、一宮城のほか、撫養城(むやじょう/鳴門市)、西条城(さいじょうじょう/阿波市)、川島城(かわしまじょう/吉野川市)、大西城(おおにしじょう/三好市)、海部城(かいふじょう/海陽町)、牛岐城(うしきじょう/阿南市)、脇城(わきじょう/美馬市脇町)、仁宇城(にうじょう/那賀町)の9城。

一宮城
名称 一宮城
所在地 徳島県徳島市一宮町西丁
関連HP 徳島市公式ホームページ
電車・バスで JR徳島駅から徳島バスで一の宮札所前下車、徒歩1分で一宮神社
ドライブで 徳島自動車道藍住ICから約13km
駐車場 一宮神社駐車場(2台/無料)を利用、大日寺駐車場を利用不可
問い合わせ 徳島市にぎわい交流課 TEL:088-621-5232/FAX:088-621-5457
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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