富益神社

江戸時代中期の1708(宝永5)年、第一次開拓者として17人が弓ヶ浜の富益村(現在の米子市富益)に入植。その際、当地にあった古木を荒神と称え、産土神(うぶすながみ=土地の守護神)と尊崇したのが富益神社の始まりとか。幕末の1858(安政5)年、神宮(伊勢神宮)から分霊を勧請し、富益大神宮となりました。

富がますパワースポットとして一躍、注目の神社に!

入植の翌年、1709(宝永6)年に誕生した富益村(当初は富益邨)。富益神社境内の「富益邨元元祖塔碑銘」に刻まれた碑文によれば、痩せた土地ゆえに開拓は困難で、朝暗い時間から開墾にいそしみ、ようやく田畑ができたのだという。
富が益(ます)という縁起のいい名前から、福成神社、福積神社、福榮神社、豊榮神社、金持神社などとともに、お金持ちになるパワースポットとしても注目を集めています。

明治20年、県道外浜線(現・市道外浜線)の建設で境内地が東西に二分。現在も県道の左右に鳥居が立つという珍しい神社になっています。この市道外浜線は、国道渋滞時には抜け道ともなっているので、渋滞したら参拝がてら抜け道利用という手もあるのです。

境内には、米子市の民俗文化財に指定される「芋代官碑」(碑面には「井戸正明大人碑」)がありますが、石見国大森銀山領の代官・井戸平左衛門の高徳を称える石造物です。

「芋代官碑」と弓ヶ浜半島のサツマイモ栽培の関係は!?
山陰におけるサツマイモ移入の歴史は、1732(享保17)年、西日本一帯が大飢饉(享保の大飢饉=江戸四大飢饉)に見舞われた際に、石見国大森銀山領の代官・井戸平左衛門が、薩摩国(現・鹿児島県)からサツマイモを取り寄せて領内の村々へ移植したのが始まり。伯耆国(鳥取県)へは1780(安永9)年、境村(現・境港市)の幸次郎が石見国・邇摩郡(にまぐん)静間村(現・大田市静間町)の船頭・甚右衛門から数個の芋をもらい、それを弓ヶ浜半島の砂地に植栽したのが始まりという。天保期の飢饉を契機に、弓ヶ浜半島の村々では芋代官碑の建碑が相次ぎ、米子市に4基、境港市に7基の芋代官碑が現存しています。
富益神社
名称 富益神社/とみますじんじゃ
所在地 鳥取県米子市富益町936
関連HP 米子市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR米子駅からタクシーで20分
ドライブで 米子自動車道米子ICから約13km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 米子市観光協会 TEL:0859-37-2311
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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