江戸時代の江戸の町(現在の東京都心)は、7割が武家の土地。なかでも面積の半分を占めていたのが、大名屋敷です。大名屋敷には競って大名庭園が築かれ、その数は数百とも、1000ともいわれています。現存する大名庭園はらしきものを含めて都内23ヶ所。都市化の荒波にもまれてひょっとするとを含めても25ヶ所ほどしかありません。
そもそも大名庭園とは、何なの!?
徳川幕府の設立で、幕藩体制が敷かれた後、全国の藩主(大名)が築いた庭園が大名庭園です。
兼六園(金沢市)、後楽園(岡山市)、偕楽園(水戸市)のいわゆる「日本三名園」も実はすべてが大名庭園。
兼六園が加賀藩前田家、後楽園が岡山藩池田家、そして偕楽園が徳川御三家の水戸藩徳川家の屋敷内にあった大名庭園です。
1642(寛永19)年、譜代大名を含めて参勤交代が義務付けられると、全国の各藩は江戸に上屋敷、中屋敷、下屋敷を設けました。
藩主の住まいとなった上屋敷、その予備的な施設の中屋敷、そして郊外の河岸(かし=川湊)や湊近くに大名庭園や蔵屋敷を配した下屋敷が置かれました。
時の将軍と縁戚関係にある藩主、あるいは将軍と親交の深い藩主は、将軍などが屋敷にやって来る「御成」(おなり)もあるので、その接待のために江戸城に近い上屋敷や中屋敷に大名庭園を築くケースも生まれます。
こうして江戸市中には多くの大名屋敷が築かれ、さらには大名庭園の美しさを競ったわけです。
そのため、江戸は「日本一の大名庭園密集地」となっているのです。
大名庭園を築くにあたって重要なことは「水の確保」
江戸時代に築かれた大名庭園は、大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池のなかの小島、橋、銘石などで中国・西湖や琵琶湖、東海道などの景勝を再現する「池泉回遊式庭園」(ちせんかいゆうしきていえん)が基本。
池泉回遊式で大切なことは、庭園の核心をなす池と泉。
というわけで、もっとも重要なのは「水の確保」です。
江戸時代の江戸の町は、山あり谷あり、湿地ありでしたから、海岸と谷を活用して日本庭園を築いています。
海岸部の庭園は池の水を海水を引き込んだ「潮入り」で、将軍家別邸の浜御殿(浜離宮恩賜庭園)や佐倉藩・紀州藩の浜屋敷(旧芝離宮恩賜庭園)、関宿藩下屋敷の大名庭園(清澄庭園)などは潮入りだったので、干満の影響で池の水の上下も楽しめたのです。
江戸市中では、目黒台、淀橋台、豊島台、本郷台などと呼ばれる舌状台地群のヘリを利用し、高台に屋敷を構え、崖線下(ハケ下、ママ下)に湧く泉を利用して崖下に池と庭園を配していました。
江戸城も本丸や紅葉山(現・皇居吹上御所付近)は高台に位置し、庭園のあった二の丸と本丸の標高差は10mもありました。
大名庭園を探勝する際には、古地図で往時の周辺の状況を確認するのとともに、その地形をぜひチェックしてみてください。
とくに、「どうやって水を確保したのか?」、そして「その水源はどこにあるのか?」。
この2点はぜひとも、皆さんの目で確かめていただきたいところです。
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