青海島・鯨墓

青海島・鯨墓

山口県長門市通(かよい)、青海島の東端部・通地区、くじら資料館近くにあるのが、鯨墓(くじらばか)。かつて寄り鯨・流れ鯨といわれるクジラを捕獲し、捕鯨で繁栄した青海島・仙崎一帯。捕獲したクジラの胎児を埋葬したのが鯨墓で、明治まで70数体もの胎児がここに眠っています。国の史跡。

元禄5年(1692年)に浦鯨組が建立した墓

出産と育児のために日本海を南下してきたクジラが、湾の中にまで入ってきたことから、それを捕獲するため藩政時代(長州毛利藩)には「鯨組」といわれる捕鯨組織も誕生。
「鯨1頭捕獲すれば7浦が賑わう」とまでいわれ、その後明治時代まで、北浦捕鯨の一大基地として隆盛を極めたエリアです。

仙崎湾を望む丘の中腹に立つ鯨墓(くじら資料館の山手側の階段を上がった先、清月庵観音堂の敷地内)は、高さ2.4m、幅0.46mの花崗岩の石塔で、通浦鯨組網頭が江戸時代初期の元禄5年(1692年)に建立したものです。
それ以前には、延宝7年(1679年)、後進に道を譲った向岸寺5世住職・讃誉上人が、鯨の胎児を哀れんで、胎児を埋葬し、読経念仏して回向を手向けのが始まりです。
解体された母鯨の胎内の胎児に漁師たちは哀れみを感じ、経を唱えて丁重に葬り、墓建設と同時に始まった全高77.5cm、幅22.4cmという巨大な鯨の位牌と『鯨鯢過去帖』(長さ671.7cmの34折の折帖)が向岸寺に保存されています。

この『鯨鯢過去帖』は、享保4年(1719年)〜天保8年(1837年)にわたって、人間と同様に、鯨に戒名をつけ、種類、捕獲した場所と組名を記録したもの。

墓の正面には大きく「南無阿弥陀仏」と刻まれその下に「業尽有情(ごうじんうじょう) 雖放不生(すいこふしょう) 故宿人身(こしゅくにんじん) 同証仏果(どうしょうぶっか)」(諏訪大社の四句偈文)が刻まれています。

「鯨としての命は母鯨とともに終わっていますが、我々は胎児を捕らえるつもりはありませんでした。海に放してやりたいが、独りでは生きてゆけないだろう。だから我々人間とともに念仏回向の功徳を受け、どうか成仏して欲しい」と諏訪の勘文とよばれる文言が陰刻され、側面には「元禄五年壬申五月 願主 設楽孫兵衛・池永藤右衛門早川源右衛門」と刻まれています。
肉食を赦免する諏訪大明神の信仰が、この地にも根ざしていたことがよくわかります。

地元が生んだ金子みすゞの詞にも、毎年向岸寺で春に営まれる「鯨法会」(鯨回向)をテーマにした『鯨法會』があり、生活に欠かせなかった捕鯨の歴史を今に伝えています。

青海島・鯨墓
名称 青海島・鯨墓/おおみじま・くじらばか
所在地 山口県長門市通
関連HP 長門市公式ホームページ
電車・バスで JR仙崎駅からサンデン交通バス、防長交通バス通行きで23分、通漁協前下車、徒歩5分
ドライブで 中国自動車道美祢ICから約41km
問い合わせ 長門市文化財保護室 TEL:0837-23-1264/FAX:0837-22-3700
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
くじら資料館

くじら資料館

山口県長門市通(かよい)、かつて北浦捕鯨の一大基地として栄えた青海島の東端、通地区にあるクジラの博物館が、くじら資料館。屋根の上にクジラのモニュメントをのせた建物で、「鯨一頭捕れば七浦賑わう」といわれた、往時の古式捕鯨の用具、解体の様子など

 

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