山口県萩市平安古町、平安寺近くに建つのが、村田清風別宅跡(むらたせいふうべったくあと)。長屋門だけが残され、村田清風の旧宅として萩市の史跡に指定。村田清風は、萩藩の天保の改革を指導。藩の財政再建、文武奨励など、明治維新における萩藩活躍の土台作りを行なった人物です。
吉田松陰が師と仰いだ村田清風、別宅の長屋門が現存
天明3年(1783年)、大組(別名馬廻)の萩藩士の家に生まれた村田清風は、15歳で明倫館に入り文武を修め、長州藩9代藩主・毛利斉房(もうりなりふさ)の小姓役を命じられ、以降13代藩主・毛利敬親(もうりたかちか)まで5代の藩主に仕え、天保の改革での活躍など藩政の中枢で政務を担っていました。
倹約を進めた天保の改革で出された『三十七カ年賦皆済仕法』(さんじゅうななかねんぷかいさいしほう)は、藩士たちの借金を藩庁が肩代わりし、藩士に金を貸していた商人たちに対して37年間、わずかな元金と2朱の利息を支払うという都合の良いもので、当然、大きな反発もあって、退陣するひとつの理由にも成りました。
門前の溝蓋石は、村田清風に不満を持つものが夜間ひそかに削ったと伝えられています。
敷地は、文政3年(1820年)に別宅として購入したもの。
38歳から63歳で隠退するまで25年間をここで過ごし、安政2年(1855年)、73歳のときに三隅山荘(長門市、村田清風記念館の隣に保存)で、中風のため没しています。
残念ながら主屋は老朽化で解体されていますが、長屋門と300坪ほどの敷地がそのままに保存されています。
吉田松陰、坪井九右衛門が師と仰いだ村田清風は長州藩の改革派(後の正義派)で、保守佐幕派(俗論派)の椋梨藤太(むくなしとうた)とは対立、元治元年7月19日(1864年8月20日)禁門の変へと至る血なまぐさい藩内闘争を展開していました。
重伝建エリアからは外れていますが、幕末の長州を支えた人物の門なので、平安古(ひやこ)、堀内の移動途中にお立ち寄りを。
近くには久坂玄瑞誕生地(久坂玄瑞旧宅跡)があります。
村田清風別宅跡 | |
名称 | 村田清風別宅跡/むらたせいふうべったくあと |
所在地 | 山口県萩市平安古町 |
関連HP | 萩市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR玉江駅から徒歩15分。またはJR玉江駅から萩循環まぁーるバス西回りで4分、久坂玄瑞誕生地前下車、徒歩7分 |
ドライブで | 中国自動車道山口ICから約44kmで中央公園駐車場 |
駐車場 | 中央公園駐車場(146台/有料) |
問い合わせ | 萩市観光課 TEL:0838-25-3139 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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