山口県萩市堀内、萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区に選定される旧萩城三の丸エリアにあるのが、萩キリシタン殉教者記念公園。五郎太石事件で処刑された熊谷元直、天野元信の殉教碑、そしてキリスト教が解禁前の明治初年、政府の弾圧で、長崎・浦上村から萩に流刑されたキリシタン20名が眠る墓があります。
キリシタンが拷問を受けた岩国屋敷跡を公園化
萩城の石垣築造に際して、五郎太石(石垣の間に詰める石)が盗まれるという紛争が益田元祥と熊谷元直、天野元信の間で始まり、築造工事が2ヶ月以上も遅延。
毛利輝元(もうりてるもと)は、萩城築城の責任者だった熊谷氏と天野氏に責任があるとして、慶長10年(1605年)、一族11人を処刑、両氏は廃絶となりますが、工事の遅れの責任を取ったというのは表向きの理由で、実はともにキリシタンで、棄教をを拒んだためだったのです。
熊谷元直は黒田孝高の影響を受けてキリスト教に入信、メルキオルという洗礼名を有していました。
山口から宣教師が追放された後にも、キリシタンを保護していましたが、毛利輝元は徳川幕府からの咎め(とがめ)を懸念し、萩城築城の遅延理由となった五郎太石事件にかこつけて熊谷元直邸を包囲し、討ち取ったのです。
毛利輝元はこの殉教を秘めましたが、時の日本司教ルイス・デ・セルケイラがローマ教皇クレメンス8世に報告し、ヨーロッパでは有名になりました。
さらに明治元年と明治3年、明治新政府は長崎・浦上村のキリシタン全信徒3394人を富山以西の20の藩全に流刑していますが(「浦上四番崩れ」)、萩にも300人ものキリシタンが移送され、過酷な拷問と飢えに耐えきれずに40余名が命を落としています(明治政府が、欧米からの強い抗議で禁教を解くのは明治6年のこと)。
津和野、萩、福山には信徒の中心人物114名が流刑となり、冬の寒い風の吹く中、震えながら石の上に正座させられるなどの過酷な拷問を受けたのです。
それでも棄教しなかったため、役人は改宗を諦めました。
明治24年、萩カトリック教会の初代司祭として赴任したビリヨンは、信徒が拷問されていたのが萩城下・旧三の丸にあった岩国屋敷で、信徒たちが寒空の下、裸にされて正座させられたという庭石を集め、それを基礎にして「奉教致死之信士於天主之尊前」の碑を建立。
その周囲には、長崎浦上村のキリシタン信徒20人が眠る墓があり、萩城築城の責任者でキリシタンだった2人の殉教碑(熊谷元直碑、「萩城建築者 伯多禄天野元信 殉教ス」の碑)が立っています。
萩キリシタン殉教者記念公園 | |
名称 | 萩キリシタン殉教者記念公園/はぎきりしたんじゅんきょうしゃきねんこうえん |
所在地 | 山口県萩市堀内 |
関連HP | 萩市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで34分、萩城跡・指月公園入口下車、徒歩5分 |
ドライブで | 中国自動車道山口ICから約46km |
駐車場 | 指月第一駐車場(50台/無料) |
問い合わせ | 萩市観光課 TEL:0838-25-3139 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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