長門長府藩第13代藩主・毛利元周(もうりもとちか)は幕末の異国船対策にも奔走、亀山八幡宮に砲台を築き、大砲4門を備えました。これが亀山砲台で、文久3年5月11日(1863年6月26日)、亀山砲台からアメリカ商船などに砲撃を行ない(下関事件)、翌年のイギリス、フランス、オランダ、アメリカとの下関戦争へと発展します。
下関戦争へとつながる砲撃が、長州藩倒幕への転機に
孝明天皇の攘夷(じょうい=外国人を敵視して打ち払うこと)に対する熱意を背景に将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての義兄に当たる孝明天皇に京で攘夷実行を約束。
その翌日に早くも長州藩は、久坂玄瑞の指揮のもと予告なく田ノ浦沖に碇泊中のアメリカ商船・ペンブローグ号(Pembroke)に対して砲撃を実施。
ペンブローグ号は、周防灘へ逃走し、外国船を打ち払ったことで長州藩は大いに気勢を上げ、朝廷からも褒勅の沙汰が届いたのです。
文久3年6月1日、アメリカ海軍ワイオミング号(USS Wyoming)が報復攻撃のためわずか1艦で関門海峡に現れ、長州藩の庚申丸(こうしんまる)と壬戌丸(じんじゅつまる)を撃沈。
毛利元周は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願しています。
敵弾は楼門をかすめただけで砲台などには大きな被害がなかったため、「八幡大神の御神意なり」と称え、亀山八幡宮は弾除八幡と称えられました。
しかし、軍事力に勝るイギリス、オランダ、アメリカ、フランスは 元治元年(1864年)8月、艦船17隻で四国連合艦隊を編成し、馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、上陸して占拠してしまいます。
その結果、長州藩は攘夷を放棄し、西欧諸国に学んで軍備軍制を近代化、薩摩藩と薩長同盟を締結して、倒幕の道を歩むことになっていくのです。
亀山砲台跡 | |
名称 | 亀山砲台跡/かめやまほうだいあと |
所在地 | 山口県下関市中之町1-1 |
関連HP | 亀山八幡宮公式ホームページ |
電車・バスで | JR下関駅からサンデン交通バス新下関駅方面行きで7分、唐戸下車、徒歩3分 |
ドライブで | 中国自動車道下関ICから約3km |
駐車場 | 下関市赤間町駐車場(300台/有料) |
問い合わせ | 亀山八幡宮社務所 TEL:083-231-1323/FAX:083-232-5365 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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