奇兵隊陣屋跡

奇兵隊陣屋跡

山口県下関市、下関市街から少し離れた吉田地区、中国自動車道と山陽自動車道の分岐点である下関JCT近くにあるのが、奇兵隊陣屋跡。長州藩の高杉晉作らが創設した奇兵隊が、慶応3年(1867年)8月〜明治2年(1869年)11月の解散まで陣屋(本陣)を置いたところで、往時の堤防が現存しています。

吉田に本陣を移したのは長州藩の内政に干渉させないため?

長州藩の奇兵隊は、幕末の文久3年(1863年)6月7日に結成された長州藩の常設部隊(奇兵とは藩の正規兵に対する意)で、当初は赤間関(下関)の外国艦隊防衛を目的としたため、本拠地を赤間関(現・下関市竹崎町)の廻船問屋・白石正一郎邸に置きましたが(奇兵隊の結成を援助し、白石正一郎、弟の白石廉作も奇兵隊に入隊)、長州征討の始まった慶応元年(1865年)に宰判勘場(さいはんかんば=地域の政治の中心地)のあった吉田に移し、慶応3年(1867年)8月に陣屋を設置しています。

この吉田の陣屋で400人の隊士が厳しい規律に従って訓練に明け暮れ、慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令、そして明治維新を迎えています。
王政復古の大号令とともに、奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍の一部となったため、陣屋自体は明治2年まで存続していますが、部隊はすでに新政府軍の一部ということに。

高杉晋作は慶應3年4月14日(1867年5月17日)に没しているので、この陣屋の完成を目にしていません。

なぜ下関でも山口でもない吉田に本陣を構えたのかは、奇兵隊の藩政への関与を薄れさせるため、山口にあった屯所を下関へ移そうと試みましたが、奇兵隊の軍監だった山縣有朋(やまがたありとも)が頑強に抵抗し、萩藩西端(下関は支藩の長府・清末藩領)で、山陽道が通る吉田ということになったようです。

慶応元年(1865年)4月にまず300名の隊士が移動し、吉田の寺社に仮宿。
本陣を庄屋の末富家に構えて幹部が暮らし、幕末には吉田全体が奇兵隊の砦と化していたのです。

構築された陣屋は、南北130m、東西300mの長方形の敷地に兵舎、講堂、稽古場などを配していました。
現在は史跡公園として整備されていますが、石碑と案内板が立つのみで遺構は残されていません。

奇兵隊を創設した高杉晋作は、死後、赤間関(下関)の鎮守になると誓っていましたが、支藩の領地に埋葬することはできなかったため、奇兵隊の本陣のあった吉田・清水山に埋葬(土葬)され、神式の葬儀が営まれています。

奇兵隊陣屋跡
名称 奇兵隊陣屋跡/きへいたいじんやあと
所在地 山口県下関市吉田
関連HP 下関観光コンベンション協会公式ホームページ
電車・バスで JR小月駅からサンテン交通バスで14分、東行庵入口下車、徒歩10分
ドライブで 中国自動車道小月ICから約5km
駐車場 2台/無料
問い合わせ 下関市観光政策課 電話番号 083-231-1350
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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