景徳院

景徳院

天正10年(1582年)3月11日、武田勝頼、北条夫人、嫡男・信勝の親子が自害し、さらに従者も殉死し、武田氏終焉の地となった、甲州市大和町の田野集落にある曹洞宗の寺が景徳院。寺は織田信長と連合して武田勝頼を破った徳川家康が、勝頼一族の冥福を祈るため、天正16年(1588年)に建立したもの。

徳川家康の命により武田勝頼終焉の地に慰霊のために建立された寺

景徳院
七堂伽藍の聳えた往時の雰囲気を今に伝える山門
景徳院
江戸時代半ば、二百年遠忌の際に建立された五輪塔

武田勝頼自刃の翌日、早くも広厳院(現・山梨県笛吹市一宮町金沢)の第七世・拈橋倀因(ねんきょうちょういん=武田信玄に請われて広厳院の住持に)が、亡骸を集め供養を行なっています。
天正10年7月に徳川家康が甲斐国に入国すると、武田氏の旧臣を自らの家臣とし、田野寺を建立するよう武田の遺臣・尾幡勘兵衛に命じています。
こうして、拈橋倀因を開山にして完成までに29年の歳月を要して完成した景徳院は、七堂伽藍(がらん)の立派なものでした。

二度の大火で山門を除いて焼失。
景徳院境内の南側に建つ御霊屋「甲将殿」(こうしょうでん)の裏手には、武田勝頼と勝頼の婦人(北条夫人)、勝頼の息子(信勝)を祀った五輪塔がありますが、安永4年(1775年)に、当時の住職である第十一世・要導が二百年遠忌を執り行なった際に建立したもの(同時に山門が落慶しています)。

平成18年に発掘調査が行なわれ、基壇のなかから法華経が記された経石が5415点も出土しています。

その後、弘化2年(1845年)、明治27年の火災で、山門を除いた堂宇が失われています。

天正10年3月10日、岩殿城主・小山田信茂の離反で、ついに自刃

『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)
『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)

天正10年3月10日、43名の手勢を連れて岩殿城(現在の大月市の背後にある岩殿山。難攻不落の要害だった)に向かう勝頼一行。

勝沼の大善寺で一夜を過ごし、笹子峠の麓、駒飼に差しかかったとき、土屋昌恒(つちやまさつね)が岩殿城から戻り、岩殿城主・小山田信茂(おやまだのぶしげ)が織田方に寝返ったことを知ります。

勝頼一行は、初鹿野から日川渓谷を遡り、田野の里に到着。
そして退路がないことを悟り、自刃に至ります。

境内にある首無地蔵は、田野の村人が勝頼、北条婦人、信勝を葬った場所と伝えられ、自害した場所という武田勝頼生害石、北条夫人生害石も残されています。
五輪塔の方は、安永4年(1775年)の二百年遠忌に造られた供養塔です。
また近くを流れる日川の姫ヶ淵は、侍女16人が身を投げた場所だと伝えられています。

武田勝頼辞世の句は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端」。
このとき勝頼は37歳、北条夫人はまだ19歳、信勝も16歳の青年でした。
しかも、信勝はまだ元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった楯無の鎧を着せ、擐甲の礼(世継ぎの儀式)を行なっています。

景徳院
名称 景徳院/けいとくいん
Ketokuin Temple
所在地 山梨県甲州市大和町田野389
関連HP 甲州市公式ホームページ
電車・バスで JR甲斐大和駅からタクシーで5分
ドライブで 中央自動車道勝沼ICから約8km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 景徳院 TEL:0553-48-2225
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
新府城

新府城

2021年11月22日

 

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