新府城

新府城

山梨県韮崎市にある中世の平山城が新府城。天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れた後、甲斐国の領国支配が強化され、天正9年(1581年)、穴山信君(あなやまのぶただ)の進言で築城された城が、新府城です。国の史跡に指定されるほか、続日本100名城に選定。

甲州流築城技術の集大成の城

天正9年(1581年)の末には武田勝頼は居館を府中(現在の甲府市)、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=現在の武田神社)から新府城に移し、徳川・織田への守りを固めました。
府中に対して、新しい府という意味で、新府です。
佐久、諏訪、駿河への交通の要衝だったことも築城の理由の一つ。

天正10年(1582年)、織田軍は甲斐に侵攻し、新府城では食い止められないと考えた武田勝頼は、新府城に火を放って退却、岩殿城を目指しますが、小山田信茂(おやまだのぶしげ)の謀反で、天目山(景徳院)で自刃、武田氏は滅亡しています。
豊臣政権下で、甲府城が築かれ、新府城は廃城となっています。

織田・徳川軍の侵攻に対抗するために、七里岩(比高130m)の断崖絶壁の上に築城され、石垣を用いない中性的な平山城で、本曲輪、二の曲輪、東の三の曲輪、西の三の曲輪、帯曲輪などで構成され、武田流築城術の特徴である丸馬出(まるうまだし)、三日月堀、出構が確認できます。
武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭といわれ、お城ファンの訪問が多い城のひとつです。

現在、本曲輪(本丸)跡地には武田勝頼などを祀る藤武神社(藤武稲荷神社=武田勝頼が城内稲荷郭に鎮守として祀ったのが始まり)が鎮座。
4月には、249段の石段を一気に駆け上がる神輿の渡御で知られる新府藤武神社の祭礼が執り行なわれています。

新府城
名称 新府城/しんぷじょう
所在地 山梨県韮崎市中田町中條上野城山
関連HP 韮崎市公式ホームページ
電車・バスで JR新府駅から徒歩15分
ドライブで 中央自動車道韮崎IC
駐車場 新府城跡駐車場を利用
問い合わせ 韮崎市観光協会 TEL:0551-22-1991
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

武田神社(躑躅ヶ崎館跡)

大正8年、武田信玄を祭神として創建された神社で甲斐の国の総鎮守。場所は武田信虎、信玄、勝頼の武田氏3代、63年間の居城だった、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡。1575(天正3)年に長篠の合戦で大敗した勝頼が、館を捨て、新府城に移るまで武

岩殿山

岩殿山

山梨県大月市街の北側にそびえる標高634mの岩峰が岩殿山。武田二十四将のひとり、小山田信茂(おやまだのぶしげ)が、天然の要害を利用して山上に岩殿城(いわどのじょう)を築いた地。JR・富士急行線大月駅から山頂までは、大岩壁・鏡岩の横を登る遊歩

景徳院

景徳院

天正10年(1582年)3月11日、武田勝頼、北条夫人、嫡男・信勝の親子が自害し、さらに従者も殉死し、武田氏終焉の地となった、甲州市大和町の田野集落にある曹洞宗の寺が景徳院。寺は織田信長と連合して武田勝頼を破った徳川家康が、勝頼一族の冥福を

山梨県四大名城

山梨県四大名城とは!?

山梨県内の城のなかで、日本100名城に選定されるのは武田氏の居館だった武田氏館(躑躅ヶ崎館=現・武田神社)と甲府藩の藩庁となった甲府城です。続日本100名城が、武田勝頼が築いた新府城、そして武田氏館の詰城の要害山城で、以上の4つが山梨県四大

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ