姫路城、彦根城、松本城、松江城と並ぶ国宝の天守が犬山城。天文6年(1537年)、鵜沼を対岸に木曽川を眼下にする要衝に織田信康(おだのぶやす/織田信長の叔父)が築いた平山城。天守も用材の科学的な年代測定から戦国時代の建築と判明、現存する「日本最古の天守」であることが明らかになっています。
木曽川に臨んで建つ国宝の天守閣
もともと織田信康の居城は、木之下城(現在の犬山市役所の西、愛宕神社)でしたが、木曽川に臨み、川を隔てた美濃国を眺める現在の犬山城の地には、物見を兼ねた砦があったと推測できます。
天文6年(1537年)、美濃国を監視でき、天然の要害である現在の地に織田信康は、城を築いて本拠にしていますが、これが平山城としての犬山城の始まり。
信長の小姓として織田氏に仕えた池田恒興(いけだつねおき)、織田信長の子・織田勝長(おだかつなが)などが城主となり、信長の出城、美濃支配の拠点としても機能していました。
織田信長没後の、小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との合戦)の際には織田方の池田恒興が突如として羽柴秀吉に寝返り、犬山城を占拠、小牧山に陣取る徳川家康と対峙しています。
天守の築城も、用材の年代測定から、この頃切り出された木材を使い、石垣を組んで櫓の上に望楼をのせる工事が行なわれていたと推測され、まさに戦国時代の天守が現存しているということに。
関ヶ原の合戦でも、犬山城は当初、岐阜城、竹鼻城(現・岐阜県羽島市竹鼻町)などとともに西軍の拠点となりましたが、城の攻防戦に巻き込まれることはなく、関ヶ原の合戦後、小笠原吉次が入城し、寺と城下町を近世的に改修しています。
元和3年(1617年)、尾張徳川家の重臣・成瀬正成(なるせまさなり)が拝領し、天守を改修しています。
木曽川を背にして40mの断崖の上、標高88mほどの山上にに天守のある本丸、その南に杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸、そして平地に三の丸が配されるという城割り(天和元年の『尾張国犬山城絵図』による/年代によって呼称が変遷しています)。
天守以外の建物は、残念ながら明治維新で破却されています。

3層ですが内部は4階建て!
国宝となった天守は外見は3層ですが内部は4階建てになっています(3層4階地下2階)。
石垣内(石倉)の地下2階を入れると6階建て(19m)といった感じに。
元和4年(1618年)、尾張藩主・徳川義直(徳川家康9男)の傅役(もりやく)として成瀬正成が入城して以降は、平成に至るまで成瀬家が代々城主を務めました。
平成16年3月に第12代の成瀬正俊氏から「財団法人犬山城白帝文庫」に寄付されて現在では財団の管理となっています。
天守最上階の高欄の間からは濃尾平野はもちろん遠く木曽の御嶽山(おんたけさん)まで眺望。
財団法人日本城郭協会が選定の「日本100名城」のひとつ。
天守以外の建築物では、明治維新で払い下げられた城門のうち、矢来門が専修院東門、黒門が徳林寺、松ノ丸門が浄蓮寺、内田門と伝わる城門が瑞泉寺にそれぞれ移築され現存。
ちなみに、田村淳(ロンドンブーツ1号2号)はこの犬山城が一番好きとのことで、「犬山観光特使」となっています。
現存天守の築城年に関しては諸説あり定かでありません。
文化庁は慶長6年(1601年)築としていますが、名古屋工業大の麓(ふもと)和善教授(建築史)、奈良文化財研究所・光谷拓実客員研究員(年輪年代学)らが令和元年9月~令和2年末、天守の木材39点の年輪を調査し、年輪幅などから伐採年代を天正13年(1585年)〜天正18年(1590)頃の伐採と特定。
「伐採から完成までに5年も10年もかかるとは考えづらい。1590年ごろの完成と推測できるので、犬山城が最古だ」(麓和善教授)と断定したことから、令和3年3月29日、愛知県犬山市は、犬山城が現存日本最古の天守であることが明らかになったと発表しています。
| 【完全攻略ガイド】国宝犬山城 | |
| 名称 | 国宝犬山城/こくほういぬやまじょう |
| 所在地 | 愛知県犬山市犬山北古券65-2 |
| 関連HP | 国宝犬山城公式ホームページ |
| 電車・バスで | 名鉄犬山線犬山駅(西口)から徒歩20分 (本町交差点を右折し、本町通を直進) 名鉄犬山線犬山遊園駅から徒歩12分 |
| ドライブで | 東名高速道路小牧ICから約10km 名古屋高速小牧北IC、中央自動車道小牧北IC、東海北陸自動車道岐阜各務原ICも利用可能 |
| 駐車場 | 犬山城第1駐車場(140台/有料)、犬山城第2駐車場(123台/有料) |
| 問い合わせ | 犬山城管理事務所 TEL:0568-61-1711 |









































