愛知県豊田市足助町(あすけちょう)は、三河で産する塩を信州に運んだ、塩の道・中馬街道の宿場町として栄えた地。また、美濃とも結ばれ、交易の拠点として繁栄したのです。江戸時代以来の重厚な町家を多く残し、その町並みは、豊田市足助伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されています。
塩の道・中馬街道の宿場町が重伝建に
塩の道・中馬街道の「中馬」とは、江戸時代に信州の馬稼ぎ人たちがつくっていた同業者の組合で、物資の運搬に従事した人々をさす言葉。
信州から年貢米やたばこ、尾張や三河からは塩などが馬の背で信州へと運ばれました。
とくに重要な交易物であった塩はここで詰め換えられ(「足助直し」)、「足助塩」と呼ばれて運ばれたのです。
江戸時代後期から有力商人が現われ、財を蓄えていきました。
安永4年(1775年)の大火直後から商家は防火建築(いぶし瓦の桟瓦葺き)に再建され、今も町並みには江戸時代中期から明治末頃に建てられた建物が数多く残り(足助川沿いの石垣は江戸時代後期〜明治初期の築造)、全体の3割ほどがその時代の建築物になっています(昭和50年に町並み保存運動が開始、平成23年6月に重要伝統的建造物群保存地区に選定)。
明治44年、中央西線が開通すると、愛知県と長野県を結ぶ物資輸送中継基地とし ての機能は衰退しますが、その後も林業・養蚕業の流通市場、金融資本が集積し、東加茂郡の中心として歩み続けています(明治11年、東加茂郡役所設置)。
中馬街道の重要な宿場・足助には、今も旧街道沿いには昔ながらの町並みが残されています。
とくに蔵造りのマンリン書店脇の「マンリン小路」は、記念撮影に絶好の場所。
黒板張りと白壁の土蔵が左右に迫り雰囲気も満点。
中橋と飯盛橋の間には、弘化2年(1845年)と記された標石も残されています。
吉良の「饗庭塩」が信州へと運ばれた
「塩の道」と呼ばれた中馬街道で運ばれた塩はおもに三河湾の吉良(きら)の「饗庭塩」(あいばえん)。
吉良から矢作川の水運を利用し岡崎伝馬町・田町の塩座まで運ばれ、その上流で支流の巴川に入り、平古(現在の豊田市岩倉町)で荷を降ろしています。
そこから馬に積まれ足助へ運ばれさらに馬を継いで信州へと運ばれたのです。
足助の塩問屋は馬の背に積みやすいように7貫目(約26kg)の俵に包み直し、4俵ずつを馬に乗せたのが「足助直し」。
「饗庭塩」以外の三河、尾張各地から運ばれてきた塩を均一にするため(塩の均質化)という目的もあったといわれています。
明治中期には年間2万俵の塩を伊那谷へと運んでいます。
運ばれたものはもちろん塩だけではなく、鉄、木綿、米、麦、大豆、味噌・醤油・酢・酒、肥料用の干鰯(干したイワシ)、小間物、瀬戸物(瀬戸焼・美濃焼)、干魚、常滑(とこなめ)の土管など多種多様。
その中継基地であり、街道の宿場でもあった足助は中央本線や飯田線が開通するまで、交通の要衝として栄えたのです。
岡崎城から愛知県道39号(岡崎足助線)を北上して巴川沿いに足助に至れば、「中馬街道の旅」が楽しめます。
なお、吉良の塩に関しては「吉良歴史民俗資料館」で詳しく解説されています。
足助の町並み(豊田市足助伝統的建造物群保存地区) | |
名称 | 足助の町並み(豊田市足助伝統的建造物群保存地区)/あすけのまちなみ(とよたしあすけでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく) |
所在地 | 愛知県豊田市足助町新町 |
関連HP | 豊田市足助観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 名鉄東岡崎駅から名鉄バス足助行きで1時間10分、一の谷口下車、徒歩5分 |
ドライブで | 猿投グリーンロード力石ICから約9km |
駐車場 | 宮町駐車場(200台)・西町第1駐車場(30台)・西町第2駐車場(70台)・落部駐車場(60台)・足助中央駐車場(90台)など/有料 |
問い合わせ | 足助観光協会 TEL:0565-62-1272 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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