熱田神宮の門前にあった東海道・宮宿の東の外れを流れていた精進川(現・新堀川)に架けられていた橋。1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻め(北条攻め)の陣中で病死した丹羽郡(にわぐん)の堀尾金助を弔うため、母が私財を投じて戦場に送った最後の姿を見た橋を架け替えたもの。
母が息子を偲ぶ「日本女性三名文」のひとつが擬宝珠に
精進川を冥土(めいど)へと渡る三途の川(さんずのかわ)と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)を祀る姥堂が建っていました。
堀尾金助の母は、息子の33回忌に再び橋の架け替えを志し、養子を迎えた息子の代の1622(元和8)年に完成させています。
橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)には、「天正十八年二月十八日に 小田原への御陣 堀尾金助と申す 十八になりたる子をたたせてよ 又二目とも見ざる悲しみのあまりに いまこの橋を架けるなり 母の身には落涙ともなり即身成仏し給え」などと記されていました。
この文章が中国(宋)へ渡る子の成尋を思う母親の心情を詠んだ「成尋阿闇梨母の集」(じょうじんあじゃりのははのしゅう=平安時代)、ジャカルタに追放されたお春がジャカルタからから日本へと宛てたとされる「ジャガタラ文のお春の消息」(江戸時代)と並んで、「日本女性三名文」ともいわれています。
この擬宝珠は、現在は名古屋市博物館に保存されています。
昭和元年に精進川が埋め立てられ、橋は撤去されましたが姥堂の境内に3分の1に縮小された橋が復元されており、橋のたもとには「都々逸発祥の碑」も立っています。
なお、親子の生まれた愛知県丹羽郡大口町の堀尾跡公園にも橋が復元されています。
小田原攻めの陣中で、18歳の若さで散った堀尾金助は、戦国大名・堀尾吉晴の子ともいわれますが定かでありません。
熱田宿は都々逸発祥の地!
七・七・七・五の音数律に従う都々逸(どどいつ)は、熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が起源とする説もあり、「都々逸発祥の碑」が建立されたもの。
東海道で最大の賑わいを誇った熱田の宮宿(熱田宿)の花街の一つ神戸で生まれた歌が神戸節。
神戸には私娼が置かれ、女たちを「おかめ」といいました。
「おかめ買ふ奴ぁあたまで知れる、油つけずの二つ折り。そいつはどいつだ、どどいつどいどい、浮世はさくさく」という歌は地元ばかりか江戸でも大ヒットし、この歌をヒントに都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)が「都々逸」を完成させたといわれています。
東海道宮宿(熱田宿)には、神戸町(ごうどまち)、築出町、伝馬町と3つの花街があり、1806(文化3)年、遊廓として公許されています。名古屋城下に花街がなかったため、さらに賑わったというわけです。
裁断橋 | |
名称 | 裁断橋/さいだんばし |
所在地 | 愛知県名古屋市熱田区伝馬2-5 |
電車・バスで | 名古屋市営地下鉄熱田神宮伝馬町駅から3分、名鉄神宮前駅から10分 |
駐車場 | 無(熱田神宮など周辺の駐車場を利用) |
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