7月の『津島天王祭』で有名で、全国に3000社ある天王社の総本社・津島神社の横にある公園。大正9年に佐屋川の支流・天王川の名残りの池を中心に開設された公園です。舟運が盛んだった時代には津島湊(つしまみなと=川湊)として尾張随一の隆盛を誇った地で、江戸時代には入江となっていました。「日本の歴史公園100選」に選定。
「日本最大の藤棚」は4月下旬〜5月上旬が見頃
明治32年に佐屋川が廃川となり、愛知県は日光川から天王川への導水を計画しますが、反対運動があって立ち消えに。
大正7年に津島町議会が公園化を決議し、大正9年に開園されました。
園内には、「日本最大の藤棚」もあり、藤の開花時期の4月下旬〜5月上旬には『尾張津島藤まつり』が開催されます。
かつて津島は「藤浪の里」といわれたほどの藤の名所でしたが、それを再現したのが「日本最大の藤棚」です。
キュウシャクフジを中心に12種類114本が植栽されています。
『尾張津島藤まつり』期間中は、ライトアップも実施されます。
7月下旬には『尾張津島天王祭』の舞台ともなっています。
天王川公園の東南にある「車河戸」と呼ばれる場所は、池に石垣に囲まれた小さな島が配されていますが、『尾張津島天王祭』で巻藁船(まきわらぶね)や車楽船が祭りの準備をする場所です。
津島湊と織田信長の関係とは!?
天王川は、木曽川の分流・足立川の俗称。
津島の南で、佐屋川(木曽川の支流)に注いでいました。
天王川公園一帯が川湊の跡で、現在は池になってしまった丸池の北東岸には、1593(文禄2)年に川番所が設置されていました。
江戸中期に洪水対策から現在の天王川公園から北側は締め切られましたが、その後も日光川や領内川と結んで新堀川を経由する舟運が行なわれていました。
この津島の舟運を利用したのが織田家です。
勝幡城主(しょばたじょうしゅ)・織田信秀と、勝幡城で生まれたと推測される織田信長は、津島湊を、さらに伊勢湾に面した熱田湊を抑えて、経済力・軍事力を蓄えてゆきます。
織田信秀は津島の豪族・大橋家に娘(信長の姉・くらの方)に嫁がせ、津島湊に矢銭(軍資金)を納めさせ、さらに熱田湊の加藤家とも親交を深め、尾張国の統一へと歩を進めています。
信長のスローガン、「天下布武」の出発点が、実は津島湊と津島神社の信徒である津島衆だったことは間違いありません。
中世に津島湊は、尾張随一の貿易港として繁栄していました。
天王川公園には津島湊の石碑も立っているので、お見逃しなく。
津島の南で、佐屋川(木曽川の支流)に注いでいました。
天王川公園一帯が川湊の跡で、現在は池になってしまった丸池の北東岸には、1593(文禄2)年に川番所が設置されていました。
江戸中期に洪水対策から現在の天王川公園から北側は締め切られましたが、その後も日光川や領内川と結んで新堀川を経由する舟運が行なわれていました。
この津島の舟運を利用したのが織田家です。
勝幡城主(しょばたじょうしゅ)・織田信秀と、勝幡城で生まれたと推測される織田信長は、津島湊を、さらに伊勢湾に面した熱田湊を抑えて、経済力・軍事力を蓄えてゆきます。
織田信秀は津島の豪族・大橋家に娘(信長の姉・くらの方)に嫁がせ、津島湊に矢銭(軍資金)を納めさせ、さらに熱田湊の加藤家とも親交を深め、尾張国の統一へと歩を進めています。
信長のスローガン、「天下布武」の出発点が、実は津島湊と津島神社の信徒である津島衆だったことは間違いありません。
中世に津島湊は、尾張随一の貿易港として繁栄していました。
天王川公園には津島湊の石碑も立っているので、お見逃しなく。
天王川公園 | |
名称 | 天王川公園/てんのうがわこうえん Tennogawa Park |
所在地 | 愛知県津島市宮川町 |
関連HP | 津島市公式ホームページ |
電車・バスで | 名鉄津島線津島駅から徒歩10分 |
ドライブで | 東名阪自動車道弥富ICから約7km |
駐車場 | 第1〜4駐車場/無料 |
問い合わせ | 津島市産業振興課 TEL:0567-24-1111 津島市観光協会 TEL:0567-28-8051 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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