大給城

大給城

愛知県豊田市大内町、徳川家(松平氏)のルーツ・松平郷の西にある中世の山城が、大給城(おぎゅうじょう)。大給松平家の初代・松平乗元(まつだいらのりもと)と、その子・松平乗正(まつだいらのりまさ)が築城した山城で、松平氏遺跡のひとつとして国の史跡になっています。

大給松平家の居城で、松平氏遺跡のひとつ

西三河の平野部(現在の岡崎、豊田市街地)はもちろん、遠く尾張国(名古屋駅や栄のビル群)まで眺望できる山上にあり、最初に砦を築いたのは土豪の長坂新左衛門でしたが、松平家が松平郷から勢力を拡張する際、宗家3代・松平信光がまず手中に収めています。
松平信光の孫、松平乗元が城主となることを許され、大給松平家の初代となりました。

永正3年(1507年)〜永正7年(1510年)に東西220m、南北280mの城郭として整備され、山頂部分に東西45m、南北20mの主郭と副郭、その南下、山中で一番広い平坦地が大給松平家の居館を備えた曲輪(くるわ)です。
山頂の端にある巨岩は、往時の見張り台だったと推測されますが、主郭と副郭の遺構は現存せず、どんな城だったのかは定かでありません。
全国的に稀な遺構として注目されるのが、北沢水手の曲輪で、石積みの段々畑のような形状が確認できます。
暗渠と取水口を設けた谷を石垣で塞ぎ、往時には城内に水を貯えるための貯水池、いざ時には敵軍の侵入を阻止する機能を有していました。

天文21年(1552年)、大給城の松平親乗(まつだいらちかのり/大給松平家4代)は、今川家に服従する松平宗家側の東条松平家・松平忠茂(まつだいらただしげ)が攻撃(松平忠茂は、今川義元より感状を受けています)。
当時の松平家は、織田につくのか、今川家につくのかで内部対立が起こっていました。
松平宗家は、天文16年(1547年)に松平竹千代(徳川家康)が数え6歳で駿府の今川義元のもとで人質となったため、今川方だったのです。

永禄4年(1561年)、徳川家康は織田信長と清洲同盟を締結。
永禄7年(1564年)、大給松平家・松平親乗も徳川家康と和睦し、家康の配下となり、天正12年(1584年)、本拠を細川城(愛知県岡崎市)に移し、天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封によって大給城も廃城になっています。

駐車場から山上の主郭まで歩いても20分ほどで到達できます。

松平氏遺跡(国の史跡)は、松平郷に残る松平氏館跡(松平東照宮)、松平城、高月院、さらに大給城の4ヶ所です。
大給松平家は、江戸時代には譜代大名4家(西尾藩、豊後府内藩、美濃国岩村藩、三河奥殿藩などの藩主)のほか、数多くの旗本を輩出しています。

大給城
名称 大給城/おぎゅうじょう
所在地 愛知県豊田市大内町城下3
関連HP 豊田市公式観光サイト
電車・バスで 名鉄豊田市駅からとよたおいでんバス下山・豊田線大沼行きで大内下車、徒歩15分
ドライブで 東海環状自動車道豊田松平ICから約4km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 松平観光協会 TEL:0565-77-8089
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
松平東照宮

松平東照宮

松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)は徳川家のルーツである松平氏発祥の地。松平東照宮をはじめ、初代・松平親氏(まつだいらちかうじ=松平氏・徳川氏の始祖)以来の松平家の菩提寺・高月院、松平城址、松平家と徳川家ゆかりの品々が展示されている松平郷館

高月院(松平家墓所)

高月院(松平家墓所)

徳川家のルーツ、松平氏の発祥の地・松平郷(愛知県豊田市松平町)にある浄土宗の寺、高月院(松平家墓所)。貞治6年(1367年)、松平郷の郷主・在原信重( ありわらののぶしげ=在原業平の子孫とも伝えられる)が寂静寺として創建。在原信重

市場城

市場城

愛知県豊田市市場町、「小原和紙のふるさと小原和紙美術館」の南にある中世の城館跡が、市場城(いちばじょう)。標高380mの山上に築かれた山城で、室町時代から戦国時代にかけて、鈴木氏4代の居城跡。現存する遺構は、天正11年(1583年)、鈴木重

挙母城

挙母城

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