古代、茨城は蝦夷征討の前線基地だった

常陸国府

古代、大和朝廷から見た東部・北部の原住民の蔑称が蝦夷(えぞ・えみし)で、律令制度の導入により、常陸国府(ひたちこくふ)は現在の茨城県石岡市(石岡小学校敷地内)に7世紀末頃に築かれています。鹿の子遺跡(かのこいせき/石岡市鹿の子)など武器製造工場も見つかっていて、蝦夷討伐の前線基地だったと推測されています。

鹿の子遺跡からは8世紀前半の鍛冶工房も出土

鹿の子遺跡(竪穴式住居後69軒、連房式竪穴遺構5棟、掘立柱建物跡31棟、工房跡19基が出土)は、常陸風土記の丘の一角にあり、鹿の子史跡公園として整備されています。
住居・工房・官かんが衙ブロックに分かれて、その一部が復元保存され、武器など軍事的に必要な鉄製品を中心に生産活動を行なっていたことがわかっています。

当時の日本の人口は560万人と推計されていますが、常陸国には官衙(かんが=役所)に務める役人、兵士や職人、農民などを合わせ22万人ほどが暮らしていることが判明しています。
奈良時代の人口密度では、東国一を誇り、古墳時代には群馬・常陸が中心だったものが常陸に東国統治の中心的な機能が移ったことが明らかです。

石岡市の舟塚山古墳(5世紀後半築造)は墳丘長186mの前方後円墳で、群馬県太田市の太田天神山古墳(墳丘長210m、5世紀前半〜中期築造)に次ぐ規模を誇っています。
舟塚山古墳の被葬者が、ヤマト王権時代の茨城国造(いばらきのくにのみやつこ)だったかは定かでありませんが、いずれにしろ現在の石岡市に国府が置かれ、常陸国分寺、常陸国分尼寺(ともに国の特別史跡)が配されたことを考えると、石岡が古代から東国の中心として栄えていたことがわかります。
しかも常陸国分寺は東西270m、南北240mの寺域を誇り、七重塔がそびえ立ち、東国屈指の規模を誇っています。
この常陸国分寺の威容からも、朝廷の常陸国重視の姿勢が伝わってきます。

平城京から長岡京、さらに平安京への遷都を行なった桓武天皇(かんむてんのう)の治世である延暦年間(782年〜806年)は、最重要政策が対蝦夷(たいえみし)政策。
東北を支配する蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行しているのです。
遠征軍は苦い敗戦も喫していますが、延暦20年(801年)の3度目は、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を派遣し、アテルイら500人の蝦夷を京都へ護送。
延暦22年(803年)に田村麻呂が志波城(しわのき/現・岩手県岩手市)を築城して、ほぼ平定されています。

その期間から「38年戦争」とも称される東北・蝦夷との戦いですが、国衙工房として使われる武器(刀装具・大刀・矢など)を製造、供給したのが、石岡市の鹿の子遺跡とその周辺の遺跡群だったのです。
遺跡から8世紀前半の鍛冶工房も出土し、時代もドンピシャ。

製鉄炉は国府からやや離れたところに配され、国府近くの鍛冶炉では、素材となる鉄の不純物の除去、鉄製品の成形を行なっていました。
まさに古代の武器産業がここ茨城県石岡市周辺に集約されていたのです。

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