青函連絡船戦災の碑

青函連絡船戦災の碑

青森県青森市、青森港の青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸、青函連絡船青森桟橋可動橋跡近くに立つのが、青函連絡船戦災の碑。北海道と本州を結んで物資、人員を運んだ青函航路は、戦時下ではアメリカ軍の標的となり、多くの尊い人命と連絡船を失っています。そうした歴史を後世に伝えるための石碑です。

青函連絡船は全滅、乗員乗客424名の尊い人命が失われた

昭和14年「第三青函丸」、昭和18年「第四青函丸」、昭和19年には制海権も制空権も失われたなかで構造を簡略化し大量建造された戦時標準船の「第五青函丸」、「第六青函丸」、「第七青函丸」、「第八青函丸」が就航し、津軽海峡では北海道と本州を結ぶ、命がけの航海が行なわれていました。


昭和20年にはさらに「第九青函丸」、「第十青函丸」が就航(3月6日、 青森港内で「第五青函丸」は防波堤に接触し沈没、死者・行方不明者82名を出す事故が発生)。

急ピッチで新船が投入されたのは、北海道から本州へは石炭、じゃがいもなどの物資の搬送が重要な役割だったのです。

昭和20年7月14日、アメリカ海軍艦載機の空襲で、青函連絡船12隻中11隻が攻撃を受け、「第一青函丸」、「第八青函丸」を除く全船が沈没、352名が死亡という痛ましい事態となりました。
沈没する船を逃れ、海に浮かんで救助を待つ人にも米軍機は無慈悲な銃撃を加えたという証言もあり、いかに無差別攻撃だったのかがよくわかります。

残った「第一青函丸」も7月15日にアメリカ海軍艦載機の空襲により三厩湾で沈没、ついに「第七青函丸」、「第八青函丸」を除くほとんどの船を失ったのです。

青函連絡船戦災の碑 碑文

 青函連絡船は、青函トンネルの完成により廃止されましたが、八〇年の歴史の中で、「戦災」の悲劇を忘れ去ることはできません。

 第二次世界大戦末期の、一九四五年(昭和二〇年)七月一四日、米海軍艦載機の攻撃により、物流の大動脈であった青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」「第二青函丸」「第六青函丸」が、八月一〇日には「亜庭丸」が青森湾で撃沈され、一三一名の犠牲者を出しました。この中に、函館船員養成所大沼分所の生徒一四名(当時一四、五歳)がおり、悲しみを一層大きくしました。

 また、七月一四・一五日に津軽海峡と函館湾でも攻撃を受け、青函連絡船は全滅をし、乗員乗客四二四名の尊い人命が失われました。

 今も、津軽海峡には「津軽丸」「第三青函丸」「第四青函丸」が、この航路に殉じた人々と共に、永久の眠りについています。

 青森市民の目前で繰り広げられた、悲惨で残酷な空襲・戦災から六〇年を経ましたが、今では、当時の惨状を止めるものはなく、人々の記憶からも薄れ、知らない世代が増え、風化されつつあります。

 青函連絡船戦災から六〇年目に当たり、この悲劇を歴史に止め、語り継ぐとともに、犠牲となられた方々のご冥福と平和を衷心より祈念し、この碑を建立いたしました。


二〇〇五年(平成一七年)七月一四日
六〇年目の空襲・戦災の日に

青函連絡船戦災の碑
名称 青函連絡船戦災の碑/せいかんれんらくせんせんさいのひ
所在地 青森県青森市柳川1
関連HP 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸公式ホームページ
電車・バスで JR青森駅から徒歩5分
ドライブで 東北自動車道青森中央ICから約5.7km
問い合わせ 青森空襲を記録する会 TEL:017-777-6200
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

青森県青森市の青森港に係留される、青函連絡船が八甲田丸。昭和39年に就航し、青函トンネル開通による昭和63年3月13日の終航まで、青森と函館を結び、人と列車を運び続けた鉄道連絡船で、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸として公開されています。

青函連絡船青森桟橋可動橋跡

青函連絡船青森桟橋可動橋跡

青森県青森市の青森港に係留保存される青函連絡船「八甲田丸」。「八甲田丸」の船尾側にあるのが、青函連絡船青森桟橋可動橋跡。青函連絡船は、船尾から貨車など鉄道車両をそのまま積載することができましたが、そのための可動橋が現存。青函連絡船に鉄道車両

青い海公園

青い海公園

青森県青森市、かつて函館へと向かう青函連絡船が出航した青森港の桟橋周辺は、青い海公園として整備され、今ではお洒落なウォーターフロント、青い海公園に変身。青い海公園には展望台、野外ステージなどがあり、シンボルタワーとして、青森県観光物産館アス

 

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