若戸渡船
北九州市の若松区(若松渡場=若松区本町1丁目/JR若松駅から徒歩20分)と戸畑区(戸畑渡場=戸畑区北鳥旗町/JR戸畑駅北口から徒歩10分)を3分で結ぶ北九州市営の渡船が若戸渡船(北九州市営若戸航路)。「第十八わかと丸」(…
北九州市の若松区(若松渡場=若松区本町1丁目/JR若松駅から徒歩20分)と戸畑区(戸畑渡場=戸畑区北鳥旗町/JR戸畑駅北口から徒歩10分)を3分で結ぶ北九州市営の渡船が若戸渡船(北九州市営若戸航路)。「第十八わかと丸」(…
門司港レトロ地区から古城山の山頂部にある和布刈公園展望台に車で上る途中、ヘアピンカーブを利用してつくられた展望台が和布刈第二展望台。門司港レトロ地区を眼下に、関門海峡や関門橋を一望にする展望台となっています。木製のテラス…
福岡県北九州市の若松区と戸畑区を結ぶ若戸大橋。その西に5kmほどのところに位置する標高122mの高塔山山頂一帯18.0haは高塔山公園として整備されています。若戸大橋や北九州市街を一望にする展望台、県木の森、万葉植物園、…
山陽新幹線、在来線に連絡する小倉駅(福岡県北九州市小倉北区)と小倉南区の企救丘駅(きくがおかえき)を結ぶ北九州高速鉄道の跨座式モノレール路線が北九州モノレール。正式名は北九州高速鉄道小倉線で、昭和60年1月9日開業。営業…
豊前国小倉(現在の北九州市小倉区)の庄屋・岩松助左衛門(いわまつすけざえもん)は、幕末の文久元年(1861年)、庄屋を退くとともに、小倉藩から小倉藩海上御用掛難破船支配役に任じられます。岩松助左衛門は灯台建設を進言し、私…
北九州市八幡東区尾倉の市立八幡病院横にある小倉交差点は、ユニークなラウンドアバウト(環状交差点)。北九州市道桃園尾倉1号線と市道西本町帆柱2号線の交わる交差点で、平成29年3月1日に福岡県下では初のラウンドアバウト(環状…
北九州市若松区の若松北海岸にある岬が遠見ヶ鼻。西側に岩屋海水浴場、東に千畳敷と脇田海水浴場という風光明媚な場所で、海岸段丘の上に妙見埼灯台が建っています。江戸時代初期の寛永17年(1640年)には幕府の命で福岡藩の遠見番…
北九州港(北九州市若松区響町)にある一風変わった歴史を有する防波堤。太平洋戦争終結後、帝国海軍の艦船は戦時賠償として連合国に引き渡されたり、解体されたりしましたが、一部は船体そのものを防波堤の一部として再生しています。そ…
京築地域(けいちくちいき=北九州地方の南東側)は、豊の国といわれた古代から畿内と九州、大陸とを結ぶ交易の要衝。7世紀末〜8世紀初頭には、豊の国が周防灘に面する豊前と豊後に分割されています。豊前の国府が置かれた場所は長い間…
天平13年(741年)に聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって建てられた国分尼寺のひとつ、豊前国に建てられた国分尼寺の跡と推測されている場所が福岡県みやこ町徳政にある豊前国分尼寺跡。豊前国分寺跡の東200mほどの場所に位置…
関門海峡の最狭部、北九州市門司区の古城山(174.9m)にある中世の山城の跡。一帯は和布刈公園(めかりこうえん)として整備されています。壇ノ浦合戦の直前に平家側が築いたのが始まりという。その後、藤原親房が門司氏を名乗り、…
北九州市若松区響町2丁目の響灘北緑地に設置された10基の風車群が響灘風力発電施設。「世界の環境首都」を目ざす北九州市のシンボル的な風力発電施設で、2003年の運転開始で開設当初は西日本最大の風力発電所でした。
柳川藩(柳河藩)10万9200石の藩庁が置かれた城が、現在の福岡県柳川市にあった柳川城で、水郷柳川の堀を生かした平城。蒲池氏の城主時代に大友氏陣中で「柳川三年肥後三月肥前久留米は朝茶の子」と戯れ歌に歌われた難攻不落の城で…
福岡平野の東を流れる御笠川(みかさがわ)に沿ってのびる月隈丘陵(つきぐまきゅうりょう)の標高30mの丘陵上にある弥生時代の共同墓地の遺跡が金隈遺跡(かねのくまいせき)。金隈遺跡から出土したのは、弥生時代の甕棺墓(かめかん…
天平13年(741年)に聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって諸国に建てられた国分寺(金光明四天王護国之寺)のひとつで、豊前国に建てられた国分寺の跡が福岡県京都郡みやこ町にある豊前国分寺跡。現存する堂宇は後継寺院として藩政…
宋から帰国した禅宗の始祖、栄西(えいさい)が源頼朝に寺地を賜り建久6年(1195年)に開山した福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺が安国山聖福寺(しょうふくじ)。博多居住の宋人の百堂跡に創建された日本最初の本格的な禅寺。…
天平宝字元年(757年)に伊勢・松坂(現在の三重県松阪市)の櫛田神社から大幡大神(櫛田大神)の分霊を勧請して創建と伝えられている古社(平清盛創建という説もあります)が福岡市博多区に鎮座する櫛田神社。博多の総鎮守として信仰…
慶長7年(1602年)、初代小倉藩主となった細川忠興(ほそかわただおき)は小倉城の天守などを建造したのと同時に、紫川の東側に東曲輪を縄張りしています。以前からの城下町だった西側(西曲輪)と結ぶために紫川に橋を架橋。これが…