一乗寺下り松
京都、一乗下り松町の地名の由来となった松の古木が一乗寺下り松。現在の松の木は4代目。京都側からの比叡山登山口の道しるべとして立つこの1本の木は、古くは『平家物語』や『太平記』にも登場しています。もっとも馴染み深いのは、吉…
京都、一乗下り松町の地名の由来となった松の古木が一乗寺下り松。現在の松の木は4代目。京都側からの比叡山登山口の道しるべとして立つこの1本の木は、古くは『平家物語』や『太平記』にも登場しています。もっとも馴染み深いのは、吉…
熊野信仰盛んな1160(永暦元)年、後白河上皇が平清盛・重盛に命じて京に創建された神社が新熊野神社(いまくまのじんじゃ)。退位後に院政を敷いた際に、住まいとしたのが現在の京都市東山区に建つ法住寺周辺(法住寺殿)。その鎮守…
朝鮮侵略を目的に、豊臣秀吉が2度の出兵を行なった、文禄・慶長の役(朝鮮では「壬辰・丁酉の倭乱」)。慶長の役の際、軍功の証として慣例である首級(しるし)の代わりに、敵兵の耳や鼻などを切り落とす「鼻切り令」が出されました。そ…
1586(天正14)年、豊臣秀吉により京都・東山に創建された天台宗の寺、方広寺。豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって大仏建立を志して造営したもの。1595(文禄4)年、大仏殿が完成し高さ6丈(18m)の廬舎那仏(るしゃなぶつ…
京都の東山にある豊国神社(とよくにじんじゃ)。「ほうこく」とも「とよくに」とも呼ばれ、祭神は豊臣秀吉。京は秀吉が大名として統治した場所。秀吉は死後、遺言により東山阿弥陀ヶ峰に葬られ、方広寺の鎮守社である豊國社に祀られまし…
綾部市で昭和63年に発見された私市円山古墳(きさいちまるやまこふん)は、5世紀中頃築造の全長81m、高さ10mの円墳。1000基を超える古墳群が形成された由良川中流域では最大規模を誇る古墳です。3段構成の墳丘からは、武具…
京都市上京区にある石像寺(しゃくぞうじ)は、819(弘仁10)年開創の浄土宗の寺。空海(弘法大師)が人々の苦しみを抜き取るという意味を込めて石像を彫り、これを「苦抜地蔵」(くぬきじぞう)と名付けたのが起源。後に釘抜地蔵(…
昭和47年に鉄道開業100周年を記念して当時の国鉄が開いたSL博物館の梅小路蒸気機関車館が前身で、京都鉄道博物館の一部。日本庭園が美しい「梅小路公園」に隣接しています。旧梅小路機関区の扇形車庫1番から7番までは動態保存車…
大正12年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、田んぼの中から忽然と中世の相模川に架かっていた橋の橋杭が出現。当時の歴史学者・沼田頼輔(ぬまたよりすけ)は、鎌倉時代の1198(建久9)年、源頼朝の重臣・稲毛重成が…
京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺が金福寺(こんぷくじ)。864(貞観6)年、慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建下という名刹。天台宗の寺でしたが、その後廃れ、江戸中期に鉄舟和尚が再興しています。俳人、松尾芭…
1723(享保8)年に創建され、のちに臨済宗永源寺派に改宗したのが京都市西京区にある華厳寺。先代住職が鈴虫の音で坐禅の悟りをひらいたことから鈴虫の飼育に没頭。通年鳴り響くその鳴き声から、今や「鈴虫寺」と呼ばれています。願…
京都市上京区にある平安時代の天文暦学者・安倍晴明(あべのせいめい)を祀る神社が晴明神社。1007(寛弘4)年、一条天皇がその功績を讃えて創建したという歴史ある社です。安倍晴明は、天文暦学から独特の陰陽道(おんみょうどう)…
東京・巣鴨にある延命地蔵菩薩を本尊として祀る曹洞宗の禅寺がとげぬき地蔵尊で、正式名は高岩寺。1596(慶長元)年の創建時には湯島、その後、下谷(したや)に移りましたが、大火で焼失。明治24年、巣鴨に移転し、現在の本堂は昭…
富山駅と立山・宇奈月温泉を結ぶ特急などを運行する富山地方鉄道ですが、富山市内の市内電車も大正2年からの歴史ある路線。高度経済成長とともに昭和59年には総延長6.4kmという廃止直前まで衰退しましたが、平成21年に「セント…
川崎市高津区久地にある用水施設。二ヶ領用水(にかりょうようすい)の水を下流の各地域へ、正確に分配するために設けられたのが久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)で、今も現役。二ヶ領用水は、久地で根方堀、川崎堀、六ヶ村堀、久地…
赤岩は、群馬県中之条町の山間にある養蚕集落。明治以前から養蚕が行なわれ、明治初期には近代養蚕技術の移入とともに前橋に繭が出荷され、その後は養蚕集落に変化しました。現在でも頑丈な養蚕農家の建物が現存し、一帯63haは、群馬…
伊勢崎藩医だった今村家が、明治45年に建てた現存する県内最古の擬洋風の医院建築がいせさき明治館(黒羽根内科医院旧館)。伊勢崎保健所、黒羽根内科医院などに使われましたが、黒羽根内科医院の新館完成で伊勢崎市へ寄贈され、現在地…
江戸時代侠客、国定忠治(くにさだちゅうじ)。本名は長岡忠次郎で、上野国佐位郡国定村(群馬県伊勢崎市国定町)出身のため、国定忠治と呼ばれています。その墓があるのは故郷、伊勢崎市国定町の金城山養寿寺。