久留里城

千葉県君津市久留里、久留里市街の東に位置する標高140mほどの尾根筋を利用した山城が、久留里城。戦国時代には上総(かずさ)に進出した里見氏の小田原北条氏に対する軍事拠点となった地。現在の天守は昭和53年に復興した模擬天守で、展望台的な役割を有しています。

上総を治めた里見氏の軍事拠点だった城

久留里城
本丸跡から眺めた久留里城下

最初の築城は、上総武田氏の祖・武田信長(たけだのぶなが)が康正元年(1455年)に上総守護代に任ぜられた直後、甲斐国から上総国に移ってと推測されています。

天文4年(1535年)、武田氏の内紛に乗じて里見義堯(さとみよしたか)が新た八方の屋根を切り崩し、堅固な山城を築城。関東屈指の要塞の地として存在しました。

里見義堯は、北条氏綱と敵対関係になったため、天文23年(1554年)には北条軍2万の大軍がが久留里城を取り囲んでいますが、里見勢はこれを撃退。
さらに永禄3年(1560年)、北条軍の攻撃を受けた際には越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を依頼し、謙信の関東出陣のきっかけを生んでいます。

その後、里見・土屋・黒田と目まぐるしく城主が遷り変わり、寛保2年(1742年)に久留里藩に転封になった黒田直純(くろだなおずみ)により近世城郭として整備され(幕府から久留里城再建のため、5000両を給付)、明治維新まで久留里藩3万石の藩庁として機能しました。

明治維新を迎え、最後の藩主・黒田直養(くろだなおたか)は新政府に恭順、久留里城は廃城となって建物は破却、荒廃します。
その後、昭和43年、久留里城の天守を旧上総町の明治百年事業の一環として復元が計画されまますが、昭和45年に合併で君津町に。
昭和46年に市制施行で君津市となった後、昭和54年に観光的シンボルの天守閣が本丸跡に復元されています。

山頂に建つ現在の天守は、昭和53年に建てられた模擬天守。
江戸時代末期の天守は2層2階と推測されていますが、現在の模擬天守は、浜松城模擬天守をモデルにした2層3階で展望台的な意味合いが強くなっています。

令和5年5月11日に発生した地震で、天守内部は立入禁止になっています。
登城にあたっては注意が必要。

久留里城

二の丸跡には「君津市立久留里城址資料館」も

二の丸跡には「君津市立久留里城址資料館」も建っているので歴史はこちらで学べる仕組み。
資料館手前の駐車場から山頂の天守を目指すと、お玉が池、薬師曲輪、資料館、天神曲輪、波多野曲輪と続き、山頂まで徒歩15分ほど。
天守台の丹生廟遺跡(たんしょうびょういせき)は、久留里藩主・黒田家のルーツ、丹党(秩父丹党)の祖神を祀った廟のあった地です。

さらに久留里の城下町では「上総掘り」で掘削された自噴井戸から湧き出した水を「久留里の生きた水」として「平成の名水100選」に県下唯一の認定を受けています。
久留里観光交流センター前に水くみ場が用意されているほか、藤平酒造の井戸、雨城庵の井戸など市内には井戸が多数残されており、城下探勝の際にはお見逃しなく!

また毎年10月下旬には『生きた水の里 久留里城まつり』も開催され、武者行列が城下町を練り歩きます。

上総掘り井戸=竹ひご・掘鉄管・削り屑を取る「スイコ」の組み合わせによる井戸の掘削技術で、明治中期に君津地方で開発されました。

生きた水の里 久留里城まつり
『生きた水の里 久留里城まつり』の手づくり甲冑武者行列
久留里城
名称久留里城/くるりじょう
所在地千葉県君津市久留里448
関連HP君津市公式ホームページ
電車・バスでJR久留里駅からタクシーで5分。久留里城三の丸跡まで、東京駅八重洲口から高速バス「アクシー号」(鴨川日東バス・日東交通・京成バスの共同運行)、千葉駅から高速バス「カピーナ号」(鴨川日東バス・日東交通・千葉中央バスの共同運行)の利用が可能
ドライブで首都圏中央連絡自動車道木更津東ICから約10km
駐車場130台/無料
問い合わせ君津市立久留里城址資料館 TEL:0439-27-3478/FAX:0439-27-3452

君津市立久留里城址資料館

久留里城の二の丸跡(標高128m)に昭和54年に開館した資料館。久留里城と君津市の歴史・文化・自然に関する資料を展示しています。屋外には明治中期に君津地方で考案された掘抜(ほりぬき)井戸の掘削技術を伝える「上総掘り」の足場(櫓)も復元されて

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