千葉県市川市須和田にある古社が、六所神社(ろくしょじんじゃ)。奈良時代、下総国(しもうさのくに)の国府(こくふ=現在の県庁)は現在の市川市国府台にありましたが、派遣された国司が参拝する神社として、下総国の総社として創建されたのが、六所神社。国中の神様を集めて祀ったという超パワースポットです。
下総国の国府にあった下総総社が前身という古社

大化2年(646年)に発せられた大化の改新の詔で、律令政治が始まり、諸国には国府が設置されました。
諸国の役所である国府(国庁)には、朝廷から国司が派遣されましたが、国司は当初赴任した国内にある全神社を一之宮から順に巡拝するのが決まりでした。
後にそれを簡略化するため、国府近くに国内の神社に祀られる神々を合祀した総社を創建したのですが、下総総社を前身とするのがこの六所神社です。
下総国の総社があったのは、かつて六所の森と呼ばれた一帯(現在の市川市スポーツセンター野球場一帯)。
明治19年までは六所神社が鎮座していましたが、陸軍教導団(明治初期の陸軍下士官養成機関)の建設地となって、現社地の須和田2丁目に遷座しています。
社名の由来は、大己貴尊(おおなむちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・素盞嗚尊(すさのうのみこと)・大宮売尊(おおみやめのみこと)・布留之御魂(ふるのみたま)・彦火瓊々杵尊(ひこほににぎのみこと)の6神を合祀しているから。
つまりは、下総国内六ヶ所の神社の神様の意。
六所神社という社名は全国にありますが、いずれも神様6柱を祀ることが由来で、もともと総社だったものも数多くあり、国府近くにあったことが推測できます。
下総国の六所神社は、戦国時代には里見氏、北条氏、千葉氏の各諸将の守護を受け、江戸時代には徳川将軍家からも尊崇されています。
六所神社の西側、市川市立第二中学校、須和田公園一帯は、弥生時代中期から平安時代に至る各期複合の集落遺跡である須和田遺跡(すわだいせき)。
南関東地方に弥生文化が伝えられたのは紀元前100年頃と推定されていますが、その南関東地方で最初に出現した弥生式土器が須和田遺跡から出土し、須和田式土器という型式名で呼ばれています。
上総・下総両国の成立は、大化の改新後、7世紀後半と推測できるので、その頃からの歴史ということになります。
下総国は、上総国と同様に大国に属していたので、国守には従五位上に相当するものが任命され、合計9人の官吏が都から派遣されていました。
延暦4年(785年)には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の父、坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)も国守として任官されていますが、現地への赴任はなかったのかもしれません。

下総国を代表する古社(式内社)11
平安時代編纂の『延喜式神名帳』には下総国には11座が記載されています。
- 香取郡 (1)香取神宮(香取市)
- 千葉郡 (2)寒川神社=二宮神社(船橋市)または寒川神社(千葉市中央区)と推定
(3)蘇賀比咩神社(千葉市中央区) - 匝瑳郡 (4)老尾神社(匝瑳市)
- 印播郡 (5)麻賀多神社=麻賀多神社(成田市台方)または麻賀多神社(成田市船形)と推定
- 結城郡 (6)高椅神社(栃木県小山市)
(7)健田神社=健田須賀神社(茨城県結城市) - 岡田郡 (8)桑原神社(茨城県常総市)
- 葛飾郡 (9)茂侶神社=茂侶神社(流山市)・茂侶神社(松戸市)・茂侶神社(船橋市)のいずれか
(10)意富比神社(船橋市) - 相馬郡 (11)蛟蝄神社(茨城県北相馬郡利根町)
| 六所神社 | |
| 名称 | 六所神社/ろくしょじんじゃ |
| 所在地 | 千葉県市川市須和田2-22 |
| 関連HP | 市川市公式ホームページ |
| 電車・バスで | 京成市川真間駅から徒歩12分 |
| 駐車場 | 境内入口鳥居横、または須和田自治会館前を利用/無料 |
| 掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 | |























