大仙陵古墳(仁徳天皇陵)には誰が眠っている!?

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)

クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並び、「世界三大墳墓」ともいわれる大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)。墳丘長525mで、日本最大の前方後円墳は、宮内庁により仁徳天皇の陵墓に治定(じじょう)されていますが、考古学的には疑問符が付きます。では、いったい誰が眠っているのでしょう?

仁徳天皇陵だと築造年代と不一致!?

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の拝所

世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産でもある大仙陵古墳(仁徳天皇陵)。
宮内庁は、百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として仁徳天皇の陵墓に治定しています。
仁徳天皇は、仮に実在したとしても4世紀〜5世紀初頭の大王で、歴史学的にはヤマト王権の時代(古墳時代)となります。
宮内庁は、仁徳天皇が埋葬されたのは、4世紀末で、江戸時代にはすでに仁徳天皇陵と認識されていおり、幕末の元治元年(1864年)には拝所も築かれています。

和銅5年(712年)編纂の『古事記』、養老4年(720年)完成の『日本書紀』、平安時代の延長5年(927年)編纂の『延喜式』には、仁徳天皇、それに続く履中天皇(りちゅうてんのう)、反正天皇(はんぜいてんのう)の3陵が百舌鳥に築かれたとされています。

宮内庁は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、田出井山古墳(反正天皇陵)をそれぞれの天皇陵に治定していますが、考古学的には上石津ミサンザイ古墳(5世紀前半)→大仙陵古墳(5世紀前期)→田出井山古墳(5世紀中頃)となり、履中天皇と仁徳天皇の墳墓の築かれた年代が逆転することになってしまうのです。

大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、大仙陵古墳は「百舌鳥耳原中陵に位置することから仁徳天皇陵に間違いない」と考えています。
ただ、考古学的な年代測定から5世紀中頃と考えれば、時代に見合うのは仁徳天皇の子、允恭天皇(いんぎょうてんのう)だと考える学者もいます。

宮内庁は、学会の研究と治定とは別問題として、仁徳天皇陵であることを変更する考えはないとしています。

「倭の五王」のひとり、大王・讃または珍の墓?

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)
はたして誰が眠っているのか!?

仁徳天皇の時代は、実は「倭の五王」の時代で、正確には天皇という呼び名もありませんでした(その実在すら疑う研究者もいます)。

実在がわかっている継体天皇の陵として宮内庁が治定する太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)は墳丘形態や出土した埴輪の形状などから考古学的には5世紀中頃の築造と推測でき、継体天皇の治世だった6世紀とは大きく異なります。
現在ではその1.5km東にある今城塚古墳(6世紀前半では最大級の古墳ですが、天皇陵の治定がないため、発掘調査や一般人の立ち入りが可能な大王墓)が継体天皇の陵と考えるのが一般的です(継体天皇の墓であることが確実視されています)。

古墳時代の日本(倭)を治めていた大王(おおきみ)は、中国南朝の宋帝国(劉宋)の正史『宋書』に「倭の五王」として記されています。
5世紀初頭から末葉までの讃 (さん)・珍 (ちん)・済 (せい)・興 (こう)・武 (ぶ)という5人の大王で、「倭の五王」の遣宋使が貢物を持って参上したことが記されています(『梁書 』では賛・彌・済・興・武)。

この「倭の五王」を古墳の建設年代に当てはめると、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)→誉田御廟山古墳(応神天皇陵)→大仙陵古墳(仁徳天皇陵)→土師ニサンザイ古墳→岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)となることから、「倭の五王」のうちの誰か、ヤマト王権の大王(おおきみ)が眠っていると推測できます。

讃は応神天皇、または仁徳天皇、履中天皇のいずれか、珍は仁徳天皇、または反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇とするのが通説で、421年(永初2年)の讃が宋へ使者を送ったのが倭の大王(ヤマト王権)の国際交流の始まり。
この時、讃は、安東将軍・倭国王の称号が贈られたと推測できます。

讃の死後、438年(元嘉15)、その弟・珍は、「使持節、都督倭・百済・新羅 (しらぎ)・任那 (みまな)・秦韓 (しんかん)・慕韓 (ぼかん)六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称し、官爵号の承認を宋に求めています(百済王が宋から授けられた官爵号は「使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」)。
南朝鮮諸国の軍事的支配権をも要求するという内容ですが、それは認められませんでした。
いずれにしろ、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に眠る大王は、倭の統一を果たし、さらに宋との密なる関係を保ち、朝鮮半島南部への軍事的な支配権もうかがっていた権力者であることがよくわかります。

さてさて、倭国王・倭済、天皇に当てはめるといったい誰なのでしょう!?
ただし天皇という呼び名が史書に現れるのは、推古天皇16年(608年)に聖徳太子が隋皇帝・煬帝に送った国書で「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」というのが初見で、それまでは、日本の君主は中国から呼ばれた「オオキミ」をつかっていたので(推古天皇の時代になって日本の自律化、集権化が進展)、天皇陵というよりも「倭国の大王墓、讃または珍の墓」という表現が正しいのかもしれません。

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)には誰が眠っている!?
所在地 大阪府堺市堺区大仙町7-1
場所 大仙陵古墳(仁徳天皇陵)
電車・バスで JR阪和線百舌鳥駅から徒歩5分。南海高野線・JR阪和線三国ヶ丘駅から徒歩5分。南海高野線堺東駅から南海バス田園線で15分、堺市博物館前下車、すぐ
ドライブで 阪神高速15号堺線堺出口から約3km
駐車場 大仙公園第1駐車場(127台/有料)・第2駐車場(149台/有料)・第3駐車場(98台/有料)
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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