「古代の水洗トイレ」(秋田城)は、大陸・渤海国の使節が使った!

「古代の水洗トイレ」(秋田城)

奈良時代〜平安時代に、調停に従わなかった東北の蝦夷(えみし)を平定し、東北を管轄するために現在の秋田県秋田市に設置された「最北の古代城柵」で官衙(かんが)機能をも有したのが秋田城。その城内では、なんと水洗トイレの遺構が発見され、大陸・渤海国の使節が使ったと推測されています。

まずは、最北の古代城柵官衙、秋田城を知ろう

秋田城

桓武天皇の命で編纂され、延暦16年(797年)に全40巻が完成した勅撰史書『続日本記』(しょくにほんき)の天平5年(733年)条には、「出羽柵(でわのき)を秋田村高清水岡に遷(うつ)し置く」と記されていることから、これが古代城柵官衙としての秋田城の始まりだと推測できます。

出羽柵設置の6年ほど前、神亀4年(727年)には中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方を支配した渤海国(ぼっかいこく/698年~926年)からの渤海使が出羽国に来着、その迎賓館もなかったことから出羽柵が築かれたとも推測できます。

出羽柵は天平宝字4年(760年)頃、秋田城と称され、国府としての機能も有して、北東北経営の中心地として繁栄しました。
戸籍の作成、税の徴収などの行政機関としての役割はもちろん、対・蝦夷(えみし=朝廷に服属しない人たちの総称)という軍事機能、北方交易や渤海国からの使者・渤海使の迎賓館としても使われています。

秋田城

奈良時代に、豪華な水洗トイレが秋田に誕生したワケは!?

「古代の水洗トイレ」(秋田城)

渤海国は神亀4年(727年)〜延喜19年(919年)まで計34回の使節を日本に派遣し、そのうちの8世紀に来航した13回中6回が出羽国に来着しています。
初回は出羽柵が築かれる以前ですが、残りは出羽柵が迎賓館として機能し、使節団をもてなしたのだと推測できます。

当時の朝廷は、朝鮮半島の新羅との関係が悪化し、同様に新羅と対立関係にあった渤海とを結び、使節団は沿海州、樺太(サハリン)、北海道を経由し、当時の朝廷の勢力範囲の北限だった秋田が玄関口として機能したのです(日本海を直接横断するルートでは敦賀に上陸)。

秋田城からは全国的にも類例のない立派な奈良時代の水洗トイレ遺構が発見されているのは、この渤海国の技術を取り入れたのかもしれません。
どうして渤海使が使ったのかがわかるのかといえば、ブタ食を食習慣としていないと感染しない寄生虫の卵である有鈎条虫卵(うこうじょうちゅうらん=生あるいは不完全調理の豚肉を食した証し)が発見されたことで、大陸の食生活の人が使ったことが判明しているのです(当時の日本にはブタを常食する習慣はありませんでした)。

丘陵の縁を利用して築かれた古代水洗トイレは、掘立柱建物、便槽、木樋、沈殿槽、目隠し塀で構成され、建物の内部からは3基の便槽が発見されています。
便槽からは北側の沼地に向かって斜面(傾斜角6度)に木樋が埋設され、最終地点の沼地部分に沈殿槽(浄化槽)が置かれるという現在の簡易水洗トイレ顔負けの構造に。
屋根付き(上屋構造)で、水洗施設が機能的に整備された古代の遺構としては、国内唯一のもの。

8世紀中頃に誕生し、8世紀末〜9世紀初頭まで使われたことがわかっているので(奈良時代後半に使われた施設)、渤海使が訪れた時期とも一致するので、迎賓館の水洗トイレだった可能性が大ともいえるのです。

秋田城の外郭東門から城外側に出た鵜ノ木地区にある古代の水洗トイレは、復元されているので見学が可能。
トイレの内部は便槽ごとに3室に分け、それぞれが壁で仕切られた個室として復元されています。
「個室に扉を設置すると古代の厠舎としては立派過ぎることや、個室内が暗くなってしまうなどの理由から扉を付けていません」(秋田市)とのこと。

容量79リットルという須恵器(すえき)の大甕(おおがめ)が置かれるのは、発掘調査で給水施設が見つからなかったことから、水は甕に貯めたものを使ったと考えてのこと。
容量1.1リットルの柄杓(ひしゃく)も実際に秋田城から出土したもののレプリカで、細部までかなり正確に再現されています。

そもそも古代の日本に水洗トイレはあったのでしょうか?

藤原京や平城京では、道路脇を水路を自宅に引き込み、水流の上で用を足したと考えられる遺構が見つかっています。

さらに藤原宮の官衙(かんが=官庁街)では、幅5mもある大溝の上をまたぐように建てられた厠(かわや)の遺構も発掘され、古代にも水洗トイレがあったと推測されています(周辺の土と比較し、土壌中の寄生虫の量が多く、消化されなかった魚の小骨なども出土することで、トイレ、あるいは肥溜めだったと推測)。

こうした水洗トイレの構造は、中国からその都の都市構造とともに導入したものだと推測できます。
汚物は道路の側溝に流れ出ることになるため、『続日本紀』の慶雲3年(706年)条に「京城内外多有薇臭」という悪臭問題も生じています。

「古代の水洗トイレ」(秋田城)は、大陸・渤海国の使節が使った!
所在地 秋田県秋田市寺内高野
場所 古代の水洗トイレ(秋田城)
電車・バスで JR秋田駅からタクシーで15分
ドライブで 秋田自動車道秋田北ICから約6.1km
駐車場 30台/無料
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
秋田城跡(高清水公園)

秋田城跡(高清水公園)

秋田市にある秋田城(あきたのき/あきたじょう)は、奈良時代から平安時代に出羽国に置かれた大規模な地方官庁の遺跡。天平5年(733年)に、秋田村高清水岡に遷された当初は出羽柵(でわのさく)と呼ばれ、天平宝字4年(760年)頃に秋田城と呼ばれる

 

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