明智光秀が主君・織田信長を討った本能寺の変。天正10年6月1日(1582年6月21日)、丹波亀山城(京都府亀岡市)を出陣した明智光秀が発した言葉が「敵は本能寺にあり」といわれていますが、同時代の史料には裏付けはありません。林羅山の『織田信長譜』では大枝山を越える際に発した言葉とされています。
近年は本能寺の変の黒幕説も台頭!
織田信長は、毛利攻め(中国平定)に自ら乗り出す際に、本能寺で悲劇的な最期を迎えてしまうわけですが、四国の所領を安堵されていた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)も明智光秀を介して、長宗我部に土佐国と南阿波2郡以外は返上せよ命じています。
もともと長宗我部元親を信長に服従させ、その見代わりとして所領を安堵した取次役が明智光秀だったこともあり、この返上命令は明智光秀の顔を潰すことにもなりました。
明智光秀は、天正10年5月14日(1582年6月4日)、安土城を訪問予定の徳川家康の饗応役に任命されて準備を始めます。
5月17日、備中高松城包囲中の羽柴秀吉からの援軍要請の書状が届き、援軍(織田信長自らも出陣)の先陣として出立するよう織田信長から命じられて居城の坂本城(現・滋賀県大津市)へ入城。
5月26日、領地の丹波・亀山城(京都府亀岡市)に向かいます。
5月27日、亀山城の北、愛宕山の愛宕権現(現・京都市右京区の愛宕神社)に参拝、5月28日、愛宕百韻(あたごひゃくいん=連歌『賦何人百韻』)を詠んでいます。
表向きは毛利征伐の戦勝祈願ですが、実は織田信長を本能寺で討つことを祈願したとも伝えられます。
天正10年6月1日(1582年6月20日)、1万3000の軍勢を率いて丹波亀山城を出陣。
天正10年6月2日(1582年6月21日)信長包囲網の中で、信長配下の軍勢が各方面に出払っていた虚を突いて、明智光秀は本能寺の織田信長を討ちます。
寛永18年(1641年)の林羅山『織田信長譜』には「光秀曰敵在本能寺於是衆始知其有叛心」(光秀曰く、敵は本能寺にあり。これに於いて衆はその叛心有るを知る)と記され、文政9年(1826年)完成の頼山陽の『日本外史』では桂川を渡河する際に「吾敵在本能寺矣」(吾が敵は本能寺に在り)と記され、この『日本外史』のセリフが流布して一般化したもの。
『日本外史』は200年もの時を経ているので、やや信頼性に欠け、林羅山『織田信長譜』ですら50年後なので、真相は藪の中です。
丹波亀山城は、天正5年(1577)頃、丹波攻略の拠点とするために築城した城で、天正8年(1580年)に丹波国を所領としたため、城下町の整備にも着手しています。
亀山では明智光秀の善政が語り継がれ、「御霊さま」として祀られているので、明智光秀の所領支配における手腕がよくわかります。
丹波国(亀山城)から山城国(本能寺)へは、大枝山の北、国境である老坂峠(おいのさかとうげ)を越える山陰道(現在の国道9号、京都縦貫道)、その北側の唐櫃越(からとごえ)を越える間道、水尾から保津峡を経由する明智越えの3ルートがあります。
唐櫃越は、山陰道よりも距離が短い反面、標高が高いため難所とされていましたが、軍道としても使われているので、この道を選んだ可能性もあります。
江戸時代中期に記された軍記物の『明智軍記』によると、丹波亀山城を出発した明智光秀軍は、3つの隊に分けたと記されますが、史料価値は低く、信憑性はありません。
現在でも本能寺の変に関しては、江戸時代から続く怨恨説のほか、高柳光寿が『明智光秀』(吉川弘文館)で唱えた野望説、さらには成り行き説の3説があり、単独犯なのか、黒幕15代将軍・足利義昭がいたのかも定かでありません。
近世国家成立史を専門とする藤田達生(三重大学教授)は『本能寺の変の群像─中世と近世の相克』(雄山閣出版)のなかで、当時の書状などを分析し、15代将軍・足利義昭が黒幕だと結論づけています。
もし黒幕が足利義昭であれば、いきなり「敵は本能寺にあり」と発したわけではなく、智将・明智光秀らしく上杉景勝や筒井順慶、雑賀衆(さいかしゅう=紀伊国北西部を拠点にした傭兵集団)と手を組み用意周到に計算されていたことになります。
それでも、決行までは重臣以外には秘匿していたことでしょうから、「敵は本能寺にあり」と諸兵を鼓舞したであろうことは十分に想像ができます。
その時歴史は動いた! 格言・名言の誕生地(5)敵は本能寺にあり|明智光秀 | |
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