福岡県福岡市東区にある陸繋島の志賀島(しかのしま)。古代、大陸への玄関口で、金印(漢委奴国王印)出土で有名ですが、鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)では、元軍と日本軍(鎌倉幕府軍)との激戦地にもなっています。蒙古塚は、戦死した蒙古(元軍)兵士供養のため、昭和2年に建設された石碑です。
戦死した蒙古(元軍)兵士供養の碑
文永11年(1274年)の文永の役(ぶんえいのえき)に続く、弘安4年(1281年)、第二次侵攻の元軍(東路軍)は、博多湾に襲来します。
これが世にいう弘安の役(こうあんのえき)。
文永の役の後、鎌倉幕府は九州の御家人に命じ、博多湾沿いに長大な防塁を築き、さらに海岸に乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)などの上陸妨害物を設置。
元軍(東路軍)は、この防御を見て、文永の役で行なった正面突破(博多上陸)を回避し、文永11年6月6日、志賀島に上陸、占領します。
志賀島周辺を軍船の停泊地としますが、日本軍は、果敢に夜襲を仕掛け、海の中道を使って陸からも攻撃を行ないます。
志賀島の戦いで元軍(東路軍)は大敗し、壱岐島へと退却したのです。
その後、再度、博多へと船を進める途中、7月30日、元軍は台風に遭遇、これが後に伝えられる神風です。
第一次侵攻の文永の役でも、元軍の軍船が志賀島に座礁したことがあり、その際、投降してきた兵220名余(120名とも)の首をはねたとされ、その場所が蒙古塚の立つ場所になっているのです。
供養塔の文字は当時の首相(陸軍出身)で、陸軍屈指のロシア通を自負した(日露戦争では満州軍参謀)田中義一によるもの(政治的には国粋主義者が入閣し、日本が軍国主義化する契機ともなった内閣です)。
軍閥政治家・張作霖(ちょうさくりん)書による「蒙古軍供養塔賛」の碑も建てられています。
蒙古塚供養塔の除幕後の昭和3年6月4日、張作霖は、関東軍の謀略とされる張作霖爆殺事件で暗殺されています。
蒙古塚は平和を希求したものなのか、対ソ戦の基地とすべく満州国立国(昭和7年)に向けての地ならしだったのかは定かでありません。
関東軍が利用した張作霖(昭和5年3月、中国・国民革命軍に敗れて満洲へ撤退)の書というところが、軍靴の足音を感じさせています。
志賀島・蒙古塚 | |
名称 | 志賀島・蒙古塚/しかのしま・もうこづか |
所在地 | 福岡県福岡市東区志賀島 |
関連HP | 福岡市公式ホームページ |
電車・バスで | 西鉄バス蒙古塚バス停からすぐ |
ドライブで | 九州自動車道古賀ICから約25km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 福岡市経済観光文化局 TEL:092-711-4666/FAX:092-733-5537 |
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