藤田さんは大姓36位、全国に37万人ほどの藤田さんが暮らし、シェアは0.29%ほど。ルーツは藤の咲く田んぼというほど単純ではなく、藤原氏の流れで「田」を付けた一族、「淵」や「縁」という田んぼのふちを意味する地形がルーツの可能性(「とうだ」と読ませる地名も多数)、さらには内藤さんと池田さんから取った例まであって複雑です。
藤田さんのルーツは天下に名だたる武蔵七党の坂東武者
藤田氏は、小野篁(おののたかむら=平安時代前期の公卿・文人)の子孫となる武蔵七党・猪俣党(いのまたとう)の出で、初代・藤田政行が平安時代末に武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県大里郡寄居町藤田)に拠って藤田五郎と名乗り、その居城を花園城と命名したのが始まり。
藤田政行の子・藤田行康は、治承8年2月7日(1184年3月20日)の一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)で討死、孫の藤田能兼(ふじたよしかね)は承久3年(1221年)の承久の乱で先陣を務めて活躍しています。
その後、藤田氏の後裔は、室町時代に足利氏に仕え、さらに山内上杉氏旗下の重臣として、戦国時代に至るまでその領地を保っています。
戦国時代末期の藤田氏当主は、山内上杉氏家中の実力者で天神山城(埼玉県秩父郡長瀞町岩田)の城主・藤田康邦(ふじたやすくに)。
藤田康邦は、北条氏康の攻撃を受けて降伏しています。
花園城(埼玉県大里郡寄居町末野)は、藤田氏の菩提寺である善導寺(藤田善導寺/墓は近くの正龍寺に)の背後の山に築かれ、標高200mに築かれた主郭には石碑(城址碑)が立っています。
主郭から南側の曲輪辺りには関東では珍しい石積遺構が残存。
関東の藤田さんならまずは、藤田善導寺と花園城に出かけてみたいところですが、花園城は登城道が藪道となっているので、藤田善導寺でお茶を濁すのも手。
藤田善導寺は、永仁5年(1297年)、藤田持阿良心上人が創建。
中世には武蔵国における浄土宗藤田派の中心地として栄えましたが、豊臣秀吉による小田原征伐で破壊され、藤田氏の武蔵国北部での隆盛は終焉を迎えています(その後、川越の照蓮社寂誉遵道上人によって再興)。
藤田康邦築城と伝えられるのが長瀞の天神山城
もうひとつ、藤田氏の拠点だった鉢形城(埼玉県大里郡寄居町鉢形)は、荒川が蛇行する断崖上に築城された崖城で、まさに天然の要害。
鉢形城は北条氏の北関東進出以降は、その支配の拠点となった城です。
あまり知られていませんが「日本100名城」にも選定され、春の彼岸頃には寄居町の天然記念物となるエドヒガンが見事です。
天神山城(埼玉県長瀞町)は、長瀞町中心部の北方、ちょうど荒川が北から東へとその向きを変える部分の、右岸の山上に築かれた山城。
天文年間(1532年〜1555年)に藤田重利(のちの藤田康邦)が築城したと伝えられ、北条氏の北武蔵進出で、北条氏の配下となりますが、永禄3年(1560年)、上杉謙信の関東侵攻で、今度は上杉方となったため、北条氏によって攻め落とされています。
その後、豊臣秀吉の小田原攻め際に、鉢形落城とともに開城。
本丸跡に模擬二重櫓(鉄筋コンクリート製)が建築されていますが、今は無惨な廃墟に。
白鳥神社(しらとりじんじゃ)脇の道を上ると15分程で城跡ですが、整備されていないので注意が必要です。
藤田康邦の子・藤田信吉は、上杉氏に仕えていますが、徳川家康・徳川秀忠に対して「上杉氏に謀反の疑いあり」と言上。
これが関ヶ原の戦いの契機となったともいわれています。
この小野篁流藤田氏の流れでは、江戸時代後期の儒者・藤田幽谷(ふじたゆうこく)とその子・藤田東湖(ふじたとうこ)がいて、後期水戸学の中心的な存在となっています。
茨城県水戸市の常磐神社境内に昭和18年創建で、藤田東湖を祀る東湖神社があります。
さらに有名な洋画家・藤田嗣治(ふじたつぐはる)も武蔵国の藤田氏の流れなので、関東の藤田さんにはこの流れも多いのかもしれません。
愛媛県新居浜市にも藤田さんのルーツが
同じ武蔵国には桓武平氏や畠山氏族の藤田氏もあり、ほかに、磐城国白河郡藤田(現在の石川郡石川町の藤田城跡周辺と推測、阿武隈川の支流藤田川が流れる)や、丹波国多紀郡大芋を発祥とする藤田氏がいます。
讃岐国、肥後国、伊予国の藤田氏も有名。
伊予岡崎城(愛媛県新居浜市郷)は、国領川に架かる城下橋を渡った右手のこんもりとした小高い丘(郷山)に築かれていました。
南北朝時代に吉野朝廷(南朝)に仕えた藤田氏の先祖・主馬介金真が、天文元年(1532年)、新居郡岡崎に移り、その子・藤田金則が岡崎城主となています。
現在藤田さんは、瀬戸内海沿岸に多く暮らしていますが、それは、戦国時代の伊予の藤田氏一族が広まったものと推測できます。
巨人軍を4度のリーグ優勝と2度の日本一に導いた監督・藤田元司(ふじたもとし)は越智郡宮窪村四阪島の出身。
四阪島(行政的には今治市)の出身ですが、新居浜市と深いつながりがあるため、まさに新居浜ルーツの藤田さんのひとりといえるでしょう。
瀬戸内海周辺に暮らす藤田さんなら伊予岡崎城と山麓に建つ鉾前神社(ほこさきじんじゃ/中世には祗園牛頭天皇を祀る)はぜひ訪れてみたい場所です。
三木市の歓喜院聖天堂も藤田さんの氏神
兵庫県三木市吉川町毘沙門の歓喜院(かんきいん)は、この一帯を治めていた藤田氏の氏神だったといわれる寺。
現存する三間社流れ造り檜皮葺きの歓喜院聖天堂(かんきいんしょうてんどう)は、応永18年(1411年)の建立で国の重要文化財。
藤田さんのゆかりの地は、ほかにも城としては、東北本線・藤田駅を降りて左前に見える茂みに、伊達氏一族の藤田氏の居城・藤田城跡(福島県伊達郡国見町山崎)があります。
神社としては岡山県岡山市南区藤田509-1の藤田神社を始め各地に藤田神社が点在。
岡山市の藤田神社は、五穀豊穣・殖産興業・縁結び・開運にご利益がある村社。
藤田村は、藤田伝三郎による児島湾干拓の大事業で誕生し、神社は大正4年に児島湾神社として創建されたものです。
藤田さんは四国と関西に多い
藤田さんは、青森県(大姓19位)の津軽地方、四国(愛媛県16位・香川県18位)と関西(滋賀県19位・大阪府19位)、山口県(13位)に多く、九州には少ない傾向が。
上杉謙信が作成したという『関東幕注文』に、藤田氏の幕紋は「ふたのかかりの五つき 地くろ」と記録されていますが、その実形は不明。
一方、『管窺武鑑』には、藤田氏の家紋は「五つ目或は上リ藤の丸」と記されています。
藤田氏の家紋は、上り藤、下り藤、下藤丸、バラ藤、三つ銭、檜扇、丸に剣片喰、五つ目結、左付立葵、丸に本文字など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
藤田さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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