遠藤さんのルーツを探せ!

遠藤さんと近藤さんは実はよく似ている名前だ。
簡単に説明すると、京の都(現在の京都市)から遠い湖(浜名湖)という意味で、遠淡海(とほつあはうみ)。それが転じて遠江(とおとうみ)。つまりは浜松市を中心とする静岡県西部エリアのこと。
京の都から近い湖(琵琶湖)が近淡海(ちかつあはうみ)、転じて近江(おうみ)、つまりは今の滋賀県という分けなのだ。

で、どうして遠藤さんと近藤さんに繋がる話かといえば、
遠江の藤原氏=遠藤さん、近江の藤原氏=近藤さん、ついでに伊勢(三重県の北部)の藤原氏=伊藤さんといずれも名門・藤原氏がルーツということになる。
遠藤さんのルーツを探す旅に出よう。

遠藤さんは遠江から摂津へ、さらに陸奥へと広がる

遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったと推測できる。
平安初期の天慶3年(940年)、征東大将軍藤原忠文(ふじわらのただぶみ)は、平将門討伐のため坂東に向かっていた。その途中、遠江国に至ったときに平将門の死を知らされている。
忠文の孫の藤原為方は「遠藤六郎大夫・摂津守・惣官」となり、以後、藤原氏を出自とするこの遠藤氏は広く栄える。この系統が現在、多くの遠藤姓のルーツとなっているようだ。
別に工藤為憲の後裔・相良維兼が、遠江守に任ぜられ遠藤氏を名乗ったとする説もあるが、いずれにしろ遠藤さんの「遠」は遠州に通じる。

さらに、ここから分かれた摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の渡辺党の中心で活躍した遠藤氏が知られている。遠藤氏は渡辺氏よりも早く渡辺津(わたなべのつ=旧淀川の河口にあった瀬戸内海沿岸で最大級の港湾、現在の天神橋一帯)に居を構えていたという。
この時期、渡辺津には渡辺氏と遠藤氏が拮抗するかたちで存在していたのである。藤原為方の後裔の遠藤頼方は平氏政権下では「和泉・紀伊・摂津三ケ国総追捕使」を任され、平家の家人として勢力を有し、次に現れる、伊豆の源頼朝に挙兵を促した文覚上人(もんがくしょうにん/TOPの画像)により攝津国の遠藤氏はさらに力を強めていく。
文覚上人とは袈裟御前との悲恋から出家した遠藤盛遠(えんどうもりとう)の後の姿である。

渡辺党・遠藤氏の流れ、文覚上人を祖とする遠藤盛継が、応永8年(1401年)、鎌倉公方より大崎平野の志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥国に下向、志田郡松山城(宮城県大崎市松山千石)を居城とした。松山城は千石城とも称され、伊達最北端の要衝を守る城として知られている。
同じ東北には仙台・伊達家を支えた家臣団として知られる遠藤家もある。遠藤基信が伊達輝宗に認められ、その子・宗信も伊達政宗の信頼厚く宿老として伊達家に仕えた。
仙台藩の遠藤氏は明治期には塩竈神社の宮司となっているのだ。

郡上八幡は遠藤さんゆかりの地

一方、平家の流れを伝える桓武平氏千葉氏族東(とう)氏の遠藤氏もいる。
400年に渡って歌い踊り続けられてきた郡上(ぐじょう)踊りで有名な岐阜県郡上市八幡町の八幡山に郡上八幡城がある。八幡町のどこにいても山頂の城が良く見え、旧二の丸跡には「山内一豊と妻の像」が建っている。山内一豊の妻・千代は、弘治2年(1556年)、初代郡上八幡城主・遠藤盛数(えんどうもりかず)の娘として生まれている(浅井氏家臣の若宮友興の子という説もあり定かでない)。

遠藤盛数が郡上八幡城を築くまでは、郡上一円は東氏によって支配されていた。美濃国群上郡二万七千石の領主であった東常慶(とうつねよし)のとき、お家騒動の後、東氏は婿養子の遠藤盛数に滅ぼされる。そこで盛数は東氏の家督を継いだのだが、東氏を名乗らず遠藤を家号としたため、本来藤原氏を出自とする遠藤氏だが、東氏流の桓武平氏となったわけである。そして永禄2年(1559年)、遠藤盛数は八幡山の上に前出の郡上八幡城を築くのであった。郡上藩の当初の藩主が遠藤氏なのは織田信長や豊臣氏の家臣だったが、関ヶ原の戦いで東軍について旧領を安堵されたというわけなのだ。
つまりは、郡上八幡城は、遠藤さんの大切なルーツのひとつ。

郡上八幡城
藩政時代に遠藤氏の居城ともなった郡上八幡城

ここで、近江国浅井家きっての勇将、遠藤直経(えんどうなおつね)に登場してもらおう。直経の祖は、鎌倉時代に近江国坂田郡須川(滋賀県米原市須川)に所領を得て下向したとされ、代々須川山一帯を治めて須川城を居城とした。後、遠藤直経は姉川合戦の際、織田軍本陣に入って織田信長と刺し違えようとしたことで知られるが、また伊賀の忍者とも直経は関係があったとか。米原市須川の集落一帯が直経が築いたという須川城の城域。美濃と近江の国境防衛に役立った出城の須川山砦は須川山の山頂に位置する。須川城近くには遠藤家ゆかりの須川観音堂(滋賀県米原市須川221)も残されており、遠藤直径が必勝祈願をしたといわれる十一面観音立像が安置されている。
長浜市垣籠町には遠藤塚がある。塚の脇には「姉川の合戦・遠藤直経の墓」と書かれた大きな案内板があるが、そこが遠藤直経終焉の地。この地の小字を「遠藤」といい、命日には地元の人の手で法要が執り行なわれているという。

須川観音堂
遠藤直径ゆかりの須川観音堂

また、新潟市北区葛塚の開市神社(かいちじんじゃ)も遠藤氏を祀っている。葛塚の庄屋だった遠藤家の七郎左衛門宗寿、七郎左衛門国忠、七郎昭忠の3人が祭神となっている。
文久3年(1863年)8月に遠藤宗寿を祀ったのが始まりだという。葛塚に市場を開きたいと運動を起こしたのが遠藤ファミリーで、今では「開市の神」として祀られているのだ。
商売をしている遠藤さんならここを訪れて商売繁盛の祈願をするのもいいかもしれない。ちなみに開市神社拝殿は国の登録有形文化財。

遠藤姓は福島県で大姓5位、山形10位、宮城13位、鳥取14位など、北関東から東北にかけて多い。千葉や徳島では円藤姓も多く見かける。

代表家紋は、千葉氏族や郡上八幡城の遠藤氏が亀甲に花角。他に千葉氏族は九曜、月に星。藤原姓は下り藤、五三桐、沢瀉。三つ星、十曜なども見られる。

 

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