藤田さんのルーツを探せ!

武蔵は戦乱の世であった。その戦乱の世を、初代の藤田政行(平安時代の末)に始まり、15代目の天神山城主・藤田康邦(ふじたやすくに)まで約400年を、武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県大里郡寄居町藤田)を中心に、藤田氏一族は必死に生き抜く。
藤田氏は、小野篁(おののたかむら=平安時代前期の公卿・文人)の裔(えい)である武蔵七党・猪俣党の出で、藤田政行が藤田郷に拠って藤田五郎と名乗り、その居城を花園城と命名したという。藤田政行の子・藤田行康は、1184(元暦元)年の一の谷合戦で討死、孫の藤田能兼は1221(承久3)年の承久の乱で活躍している。その後、藤田氏の後裔は、室町時代に足利氏に仕え、さらに山内上杉氏旗下の重臣として、戦国期に至るまでその領地を保つことができたのである。

藤田氏のルーツは天下に名だたる武蔵七党の坂東武者だ

戦国時代末期の藤田氏当主は、山内上杉氏家中の実力者の藤田康邦であった。藤田康邦は、やがて北条氏康に従い、のち秩父郡へと移って秩父など北武蔵八郡内を支配し、その居城は天神山城や鉢形城であった。
花園城(埼玉県大里郡寄居町末野)は、藤田氏の菩提寺である善導寺(藤田善導寺/墓は近くの正龍寺にある)の背後の山に築かれ、主郭は標高200mの所にあり、石碑が建てられている。主郭から南側の曲輪辺りには関東では珍しい石積遺構が残っている。藤田さんならまずは、善導寺と花園城に出かけてみたい。
藤田善導寺は、1297(永仁5)年に藤田持阿良心上人により創建。中世には武蔵国における藤田派の中心地として栄えたという。

鉢形城(埼玉県大里郡寄居町鉢形)は、荒川が蛇行する断崖上に築城された崖城で、まさに天然の要害。鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点として君臨した。あまり知られていないが「日本100名城」にも選定され、春の彼岸頃には寄居町の天然記念物となるエドヒガン(TOPの画像)が咲く。
天神山城(埼玉県長瀞町)は、長瀞町中心部の北方、ちょうど荒川が北から東へとその向きを変える部分の、右岸の山上に築かれた山城である。天文年間に藤田重利(のちの藤田康邦)が築城したといい、秀吉の小田原攻め際に、鉢形落城とともに開城した。本丸跡に模擬二重櫓(鉄筋コンクリート製)が建築されたが今は廃墟となっている。白鳥神社(しらとりじんじゃ)脇の道を上ると城跡だが、整備されていないので注意が必要だ。

荒廃した天神山城の模擬天守
荒廃した天神山城の模擬天守

藤田康邦の子に藤田信吉という武将がいた。上杉氏に仕えた信吉は、家康と秀忠に対して「上杉氏に謀反の疑いあり」と言上したのだが、これが関ヶ原の戦いの契機となったともいわれている。また、この系列(小野篁流)の末孫に名儒者・藤田幽谷とその子・藤田東湖(ふじたとうこ)がいる。茨城県水戸市の常磐神社境内に昭和18年創建で、藤田東湖を祀る東湖神社がある。後世の有名な洋画家・藤田嗣治も武蔵国の藤田氏の流れであるという。

愛媛県新居浜市にも藤田さんのルーツが

同じ武蔵国には桓武平氏や畠山氏族の藤田氏もあり、他に、磐城国白河郡藤田(現在の石川郡石川町の藤田城跡周辺と推測、阿武隈川の支流藤田川が流れる)や、丹波国多紀郡大芋を発祥とする藤田氏がいる。
讃岐国、肥後国、伊予国の藤田氏も有名で、伊予岡崎城(愛媛県新居浜市郷)は、国領川に架かる城下橋を渡った右手のこんもりとした小高い丘(郷山)に築かれていた。吉野朝廷に仕えた藤田氏の先祖主馬介金真が、1532(天文元)年に新居郡岡崎に移り、その子藤田金則が岡崎城主となった。現在藤田姓は、瀬戸内海沿岸に多く見られるが、それは、戦国時代の伊予の藤田氏一族が広まったものと思われる。元巨人軍の監督・藤田元司は愛媛県新居浜市の出身。四阪島(行政的には今治市)の出身だが、まさに新居浜ルーツの藤田さんのひとりといえよう。
瀬戸内海周辺に暮らす藤田さんなら伊予岡崎城と山麓に建つ鉾前神社にはぜひ訪れてみたい。

三木市の歓喜院聖天堂も藤田さんの氏神

兵庫県三木市吉川町毘沙門の歓喜院聖天堂(かんきいんしょうでんどう)は、この一帯を治めていた藤田氏の氏神だったといわれる。現存する三間社流れ造り檜皮葺きの建物は、1411年(応永18)年の建立で国の重要文化財。
藤田さんのゆかりの地は、他にも城としても東北本線藤田駅を降りて左前に見える茂みに、伊達氏一族の藤田氏の居城であった藤田城跡(福島県伊達郡国見町山崎)があり、福島県石川町中野には石川有光が築いた藤田城があり、他に岩代藤田城、陸奥藤田城なども歴史に顔を出す。
神社としては岡山市南区藤田509-1の藤田神社を始め各地に藤田神社がある。岡山市南区の藤田神社は、五穀豊穣・殖産興業・縁結び・開運にご利益がある村社。藤田村は、藤田伝三郎による児島湾干拓の大事業で誕生し、神社は大正4年に児島湾神社として創建されたものだ。
藤田という名前から藤の花を連想するが、「淵」や「縁」という田んぼのふちを意味する地形がルーツの場合もありえるので、全国に藤田という地名も散在するのだ。

藤田姓は、青森(大姓19位)の津軽地方、四国(愛媛16位・香川18位)と関西(滋賀19位・大阪19位)、山口(13位)に多く、九州には少ない。
上杉謙信が作成したという『関東幕注文』に、藤田氏の幕紋は「ふたのかかりの五つき 地くろ」と記録されているが、その実形は不明。一方、『管窺武鑑』には、藤田氏の家紋は「五つ目或は上リ藤の丸」と記されている。

藤田氏の家紋は、上り藤、下り藤、下藤丸、バラ藤、三つ銭、檜扇、丸に剣片喰、五つ目結、左付立葵、丸に本文字など。

 

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