村上さんのルーツを探せ!

村上さんといえば、一見、「村の上(奥)の方に暮らす人」という地名姓を連想させる。村の奥は鎮守の森などの聖地が多いため、村の神にも通じる名前だ。
しかし、全国に三十数万人いると推定される村上さんのルーツはそんなに単純ではない。
第62代村上天皇(在位946年〜967年)の子孫を名乗る村上源氏という賜姓皇族説もあるからだ。
実は源氏には祖とする天皇別に21の流れ(源氏二十一流)があり、村上天皇の皇子・具平親王を祖とするのが村上源氏。
注意したいのは、村上源氏の末裔が必ずしも村上さんではないこと。岩倉具視も村上源氏の流れだし、北畠さん、佐々木さん、本間さんにもこの流れがあるのだ。

まずは、村上義清から調べを進めよう

あの武田信玄を二度も破った男の名を村上義清(よしきよ)という──。
信濃国更級(さらしな)郡村上郷を発祥とする村上氏は、八幡太郎義家の祖父である源頼信の清和源氏頼信流。
嘉保元年(1094年)源仲宗の四男・盛清が村上郷に配され、その子・為国の時に初めて村上氏を名乗ったという。

戦国期の村上氏の本拠地は信濃国埴科(はにしな)郡坂城(さかき)の葛尾城(かつらおじょう)で、村上氏は北信濃四郡を領有する信濃の一大勢力であった。
戦国全盛期の当主・村上義清は猛将として知られ、信濃に進出してきた武田晴信(後の信玄)を天文17年(1548年)の「上田原の戦い」(現在の長野県上田市での合戦)に破り、この合戦で信玄は初めての大敗を喫する。
続いて戸石城攻防戦でも義清は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして見事晴信(信玄)を破っている。これが戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる信玄の大敗北。

しかし、これで信玄が黙っているはずもなく、天文22年(1553年)、ついに村上義清は葛尾城を追われ、越後に逃れて上杉謙信を頼ることとなる。ここに信玄と謙信は対峙し、やがて川中島の戦いへ突入していくのである。信玄と謙信の対立の原因にもなった男、それが村上義清なのである。
平成19年のNHK大河ドラマ『風林火山』では村上義清を永島敏行が熱演。NHKがこの役に永島敏行を配したことからも、村上義清がいかに重要な人物だったのかがよくわかる。

葛尾城主郭
葛尾城主郭

「北信濃の雄」、村上義清の居館跡は、葛尾城(長野県埴科郡坂城町坂城)の南山麓の満泉寺(長野県埴科郡坂城町坂城1148)とその周辺一帯。
天文22年(1553年)、武田軍に攻められた村上義清は、居城の葛尾城と居館を兵火で失う。その後、上杉景勝が北信濃を領有すると、義清の子・景国(国清)は信濃の地・海津城に返り咲き、父・義清の居館跡に満泉寺を再建している。

そんな満泉寺には村上氏系図等が保存されている。本尊の「石造釈迦如来坐像(県宝)」は安山岩で作られた仏様(石造の本尊は信州で唯一)で、鎌倉時代後期の作。
葛尾山頂の葛尾城跡からは、坂城・戸倉上山田の街並みや千曲川の雄大な流れが一望できる。
この葛尾城、徳川秀忠が関ヶ原に向かう途中の上田城攻防戦で、徳川方が籠もったため、真田信繁(幸村)が二度にわたり出撃。つまりは平成28年のNHK大河ドラマ『真田丸』の重要な舞台でもあるので、村上さんなら一度は訪れてみたい場所。
千曲川の北岸にそびえる城は、このちに狭まった千曲川を眼下にする天然の要塞。善光寺平に進むにはどうしてもこの関となる場所を通る必要があるのだ。
(天然の要害ぶりは、下の地図を参照)

近世の越後村上藩の村上氏は、藩祖・村上義明(村上頼勝)を義清の子・国清の弟とされるが、新井白石は伊予の村上二郎の後胤とするなど異論も多い。村上市街地東端にそびえる臥牛山山頂に村上城跡があり、村上の街中から見上げた臥牛山頂に、今も累々と石塁が連なっているのが確認できる。
標高135mの臥牛山山頂一帯に広がる村上城跡。臥牛山の地形を巧みに利用した天然の要害で、上杉謙信軍に攻められても落城しなかったという難攻不落を誇る。慶安2年(1649)には徳川家康のひ孫、松平直矩が入城、城と城下を整備した。

村上城は村上氏2代によって近世城郭へと姿を変えるが、残念ながら越後村上藩主だった村上家は2代限り。

村上さんのルーツは水軍と呼ばれる海の男達だ

一方、瀬戸内海を支配していた村上水軍の村上氏も、信濃村上氏の一族と推測できる。
鎌倉時代に因島の公文(徴税官)に任命され、室町時代に幕府から海上の警備を任されてから水軍として活躍し、後には織田信長の水軍を破るほどにもなる。

この村上水軍は、因島村上、能島(のしま)村上、来島村上の三家に分かれて瀬戸内海を支配する。
戦国時代の当主は、因島村上氏は村上吉充(よしみつ)、能島村上氏は「海の大名」として名を馳せた村上武吉とその子・元吉、そして来島村上氏は来島(村上)通康とその子・通総(みちふさ)である。
やがて、来島村上氏は豊臣秀吉の側近となり、その後、明治を迎えるまで大名として続いた。
豊後森藩主の久留島氏や、隠岐の村上氏も村上水軍と同族である。

村上水軍の関係地として、まずは水軍の聖地である大三島(愛媛県今治市大三島町宮浦)の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)がある。
伊予国一宮で、源平の時代から近世に至るまで、西日本を制しようとする者は村上水軍に協力を乞い、島の大山祇神社に武具甲冑を奉納したため、数多くの国宝・重要文化財の武具・甲冑が大山祇神社に納められている。

大山祇神社拝殿 (国の重要文化財)
大山祇神社拝殿 (国の重要文化財)

その大三島のすぐ前にある古城島の甘崎城跡は日本最古の水軍城跡であり、また、島全体が来島城跡となっている愛媛県今治市波止浜沖の来島、今治市宮窪町宮窪の能島城跡、尾道市向島の向島には余崎城跡と村上水軍ゆかりの城が散らばっている。さらに、因島(広島県尾道市因島)の南端には長崎城跡が、島の中央部の青陰山山頂に青陰城跡があり、島の北端には青木城跡が、因島支所前の亀島には亀島城跡がある。

また、尾道市因島中庄町にその名を「因島水軍城」という昭和58年(1983)に建てられた観光城が聳えていて、村上水軍の歴史・資料が展示されている。城の麓にある金蓮寺(こんれんじ/尾道市因島中庄町3225)は村上水軍の菩提寺なので、ここも訪れてみたい場所である。

因島水軍城
因島水軍城

毎年8月には南北朝時代から室町・戦国時代にかけて因島を拠点に活躍した村上水軍を再現する『いんのしま水軍まつり』が開催される。
上旬の島まつり、下旬の火まつり、海まつりに分かれており、海まつりは、水軍時代に使われていた伝令船「小早」を使った小早レースも行なわれている。

『いんのしま水軍まつり』
『いんのしま水軍まつり』

千葉の村上さんは八千代市がルーツかも

瀬戸内海の水軍から目を本州に転じれば、さらに、千葉県八千代市米本に村上氏の居城だった米本(よなもと)城と米本神社、岐阜県高山市奥飛騨温泉郷村上に村上神社がある。奥飛騨の村上は、村上天皇を神社に祀り、その後その地を村上と称するようになったと伝わるが定かでない。奥飛騨温泉郷の総鎮守でもある村上神社の例祭は新緑始まる5月に齋行される。
八千代市にある米本城は一の郭・二の郭・三の郭から構成される平城。天文年間に土豪だった村上国綱、綱清父子が築城したと伝わる。城の主要な部分は高度成長期に土の採取現場となって、保存されていない。麓を流れる新川には城橋(じょうばし)が架かっている。
米本城主だった村上綱清開基の寺が米本山長福寺(曹洞宗)。城郭的な雰囲気もあるので、米本城山麓の館的な存在だったのかも知れない。
ちなみに米本城の東北(鬼門)の守りが米本神社といわれている。

日本一有名な村上さんは、作家の村上春樹だろう。出身は京都市伏見区。『限りなく透明に近いブルー』の村上龍は長崎県佐世保市出身。お笑い芸人の村上ジョージは、瀬戸内海に面した愛媛県今治市、村上ファンドで世を騒がせた村上世彰は大阪市出身と、有名人に限っていえば西日本が優勢。

現在でも村上姓は瀬戸内海沿岸に多く、とくに愛媛県では大姓1位となっている。広島県は大姓6位、熊本県は4位。

代表家紋は上の字。因島家と能島家は丸に上の字、来島家は折敷(おしき)に縮み三文字。他に、五三桐、鷹の羽、片喰(かたばみ)、五瓜(ごか)に梅鉢、藤菱、菊、巴など。

 

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