青木さんのルーツを探せ!

数ある家紋の中で富士山を家紋に使っているのは、青木さんぐらいだろう。「青木富士」という霞にたなびく富士山の家紋を使っているのだ。
江戸時代の大名は約280家あるのだが、実は、富士山を家紋に使っているのは麻田藩の青木家だけ。
麻田藩は現在の大阪府池田市、豊中市、箕面市、兵庫県川西市、伊丹市、尼崎市、宝塚市などを領有した藩。
初代藩主・青木一重(あおきかずしげ)の父・青木重直は美濃国(岐阜県の南部)出身。

あの柳沢吉保も甲斐の青木氏がルーツ

青木さんには富士山が似合うようで、富士山を間近に望む、甲斐国巨摩郡青木(山梨県韮崎市清哲町青木)を発祥とする青木氏は、清和源氏新羅三郎源義光の後裔。
甲斐国守護一条源八時信の子・十郎時光を祖としている。
この系統の青木信親(武川衆の旗頭)は武田信虎・信玄親子に仕え、信親の子・青木信時は武田信繁(甲斐武田氏18代・武田信虎の子で、武田信玄の同母弟)に仕えた。その青木信時の指物には金札に「英雄」の二文字が記され、英雄という文字を翻した信時は、戦場を変幻自在に駆け回っていたという。青木家の墓所である武隆山常光寺も韮崎市清哲町青木にある。開基は青木信定。
実は、この定光寺は柳沢吉保(TOPの画像)ゆかりの寺。柳沢吉保が、常光寺を崇敬するのは、青木家の菩提所だから(境内に青木氏歴代の墓がある)。吉保の祖父・柳沢兵部丞信俊は、青木信親の三男。つまりは、主命により柳沢家を継いだため、柳沢家にとって青木家は宗家となるのだ。柳沢家本来の菩提所・柳沢寺が水害などで衰えたこともあって、吉保は定光寺を尊崇したのだという。
常光寺位牌堂には、なんと柳沢吉保寄進の青木家の系図が安置されていて、新羅三郎義光から第7世青木信親までを記しているのだ。

また、武蔵七党の一つ丹党(たんとう=平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・児玉郡西部で活躍)の末裔が、武蔵国入間郡青木(埼玉県飯能市青木)の地を領し青木姓を称したという。
この系統で、美濃(岐阜県の南部)に移った一族から戦国期の青木直兼・重直親子が生まれ、豊臣秀吉や徳川家康に仕え、江戸時代には青木一重が前述の摂津国・麻田藩主となっているのだ。
飯能市青木には、残念ながら地名の他には青木さんのルーツを伝えるものがなにもない。
青木、中居、小久保、下加治の4村の鎮守は白子神社(しらねじんじゃ)で、天平勝宝元年(749年)の創建と伝わる古社だ。白子神社を参拝してお茶を濁しておこう。

豊中市には大名になった青木さんの陣屋跡が

さてさて、話を初代麻田藩主・青木一重に戻そう。
青木一重は家康と信玄が激突した三方ヶ原の戦いまでは徳川家康の配下だった。その後、徳川氏の元を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父・重直を頼った。
丹羽氏に仕えて山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、長秀の死後は羽柴秀吉の家臣に転じている。
大坂冬の陣まで豊臣秀頼の親衛隊である七手組の組頭を務めていた青木一重は、秀頼滅亡後に剃髪したが、家康のたっての願いで新知召し出しとなり、摂津麻田藩1万2000石の藩主となる。
かつて一重は家康の下で出陣した姉川の戦いで、真柄(まがら)十郎左衛門を討ち取る武功をあげた勇のものであったのだ。

以後青木氏は、廃藩置県の時まで14代が1万石の小藩ながら摂津麻田を支配する。外様ながら領地替えもなく幕末まで継続したのは稀なケース。青木氏の不断の努力があったのだろう。
麻田藩陣屋跡は大阪空港の目の前の「豊中起業チャレンジセンター」(旧蛍池公民館)がその跡地(豊中市蛍池中町3-9-20)といい、往時の面影はまったく残されていない。陣屋図によると、その規模はおおよそ南北250m、東西190m。東と北の2面に内堀を配し、本丸部分には、本丸御殿、会議所、柔剣道場などが建ち並んでいた。
能勢街道を陣屋内に取り込んで、交通の要衝をしっかりと抑えていたようだ。
現在では「インキュベーションセンター」前に麻田藩旧蹟と刻まれた巨大な石碑が立つのみだ。また、常楽寺東の上西家(大阪府豊中市刀根山元町5-27)には麻田藩陣屋の西の門(長屋門)が移築され、陣屋跡とともに豊中市の文化財に指定されている。
また、麻田藩陣屋の御殿玄関が報恩寺(大阪府豊中市春日町2-6)に移築されている。

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青木一重と同族と思われる安土桃山時代の武将・青木一矩(あおきかずのり)は、越前北ノ庄21万石の城主となっている。孫の青木久矩(ひさのり)は大坂の陣に豊臣方に味方し戦死。娘の蓮華院(お梅の方)は徳川家康の側室の一人となっている。

滋賀県米原市にも青木さんの大切なルーツが!

さらに、近江国坂田郡青木(滋賀県湖南市石部)を発祥とする藤原利仁流の青木氏がいる。かつての近江国坂田郡、現在の米原市能登瀬に鎮座する「青木大明神」と呼ばれる山津照神社(やまつてるじんじゃ)は、江戸時代は「青木梵天王」などと称していた広大な社。
伝承によると藤原鎌足の後裔である青木武蔵守頼忠が当地に土着し山津照神社の別当として祭祀を担った。だから「青木大明神」と呼ばれるようになったというわけなのだ。
山津照神社、別当であった善性寺一帯が青木氏の城跡で、境内社の青木神社付近には居館である「御殿」が設けられていた。
実は山津照神社、明治15年に現社地に遷座する以前は、青木神社のあった場所に建っていたというから、やはり青木神社にもぜひ参拝しておこう。
山津照神社と青木神社の間にある前方後円墳は、神功皇后の父・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の墳基といわれ、多くの文化財が出土している。

山津照神社
青木氏の城跡に建つ山津照神社

この近江国からは、他に佐々木氏流や、蒲生氏流の青木氏が出ている。
武蔵国からは、他に藤原秀郷流の青木氏も出ている。

青木姓は東日本に広く分布し、とくに北関東に多く、栃木県で大姓12位、群馬(19位)、神奈川にもかなり分布し、他に島根にも見られる。

家紋は、青木一重などの丹党の青木富士が著名だが、実はこれは替紋であり、いわゆる定紋は三つ盛り州浜(すはま)となっている。他に、割菱、稲丸に一、丸に一、丸に葛花、丸に揚羽蝶、花菱、九曜、桔梗、梅鉢など。

 

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