長谷川さんのルーツを探せ!

長谷川さんと聞いて思い浮かべる有名人は誰でしょう?
『サザエさん』、『いじわるばあさん』の作者・長谷川町子は、佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)の生まれ。
ハセキョンこと長谷川京子は、千葉県船橋市の生まれ。
年配の人なら往年の時代劇スター・長谷川一夫という人もいるでしょう。長谷川一夫は京都・伏見の出身。

長谷川さんのルーツのひとり、長谷川平蔵は実在した!

時代劇がらみでいえば池波正太郎原作でテレビ時代劇『鬼平犯科帳』主人公の鬼平こと「長谷川平蔵」という名は本名である。正式には長谷川平蔵諱宣以(のぶため=長谷川宣以)という、父の宣雄も京都町奉行まで勤めた有能な武士であった。

天明3(1783)年の浅間山大噴火や大飢饉の後田沼意次が失脚し、天明7(1787)年、松平定信が老中に就任。経済不安から世情は乱れ犯罪は凶悪化していくなか、長谷川平蔵が火付盗賊改の長官となったのは、同年10月のこと。以来、平蔵は没するまでの8年間に渡って火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)を務め上げた。過去、火付盗賊改方という激務を8年も務めた旗本はいない。

平蔵は江戸市中を巡回し、放火や殺人・強盗などの凶悪犯罪を捕え、取り調べ、裁判する権限まで与えられていた。神稲(しんとう)小僧や妖盗葵小僧の逮捕から、人足寄場の設置と歴史に刻んだ平蔵の功績は大きい。また、長谷川家の家紋は三つ藤巴で、平蔵が捕物に際して被る陣笠や、装束の紋所にもなっている。
ちなみに長谷川平蔵の墓は東京都新宿区須賀町の戒行寺にあるので、長谷川さんなら一度は墓参りに行くのもいいだろう。

長谷川平蔵供養碑(戒行寺)

長谷川平蔵供養碑(戒行寺)

2018年1月18日
戒行寺

戒行寺

2018年1月18日

長谷川さんのパワースポットの筆頭は長谷寺!

この長谷川平蔵のルーツをさかのぼれば、三方ヶ原の戦いで武田軍の前に華々しく散っていった長谷川正長(はせがわまさなが=駿河国小川城主)や、正長の祖父である駿河国益頭郡小河の小川長者法栄に辿りつく。では、藤原北家藤原秀郷流の長谷川平蔵のルーツを求めて大和国へ行ってみよう。

──藤原秀郷流の長谷川氏は、古墳時代、奈良県桜井市の初瀬(長谷)川の地を支配していた県主(あがたぬし)が、川にちなんで長谷川を名乗ったのが始まりという。「初瀬(はせ)」とは牡丹で有名な長谷寺(奈良県桜井市初瀬=初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる)のある場所で、昔は「はつせ」と読んでいたとか。長谷(ながたに)の初瀬川(はつせがわ)が転じて長谷川ととなったのだ。長谷川さんならぜひぜひ長谷寺に参拝せねばなるまい。
長谷寺はまさに長谷川さんのパワースポットでもあるのだ。近くには長谷山口坐神社(はせやまぐちにいますじんじゃ)も鎮座している。この地の氏神だからあわせて参拝を。

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ちなみに鎌倉にある有名な長谷寺も、天平8(736)年、大和の長谷寺の開基・徳道を藤原房前が招いて開いたというからやはり長谷川さんのパワースポットといえよう。

その他の長谷川氏は、長谷川党で知られる大和国式上(しきじょう)郡長谷(初瀬村)を発祥とする在原氏族と同じ大和国十市(といち)郡の中原氏族、摂津国能勢郡長谷(現在の大阪府豊能郡能勢町長谷)を発祥とする清和源氏満政流、また越中国の藤原利仁流や美濃国の橘氏族などもある。

大阪府豊能郡能勢町長谷(ながたに)は棚田が200枚ほど残る棚田の里でもある。鎮守社である岐尼神社(きねじんじゃ)は、782(延暦元)年創建の古社。一帯は枳根庄(きねのしょう=枳禰庄)と呼ばれた荘園だったのだ。

長谷寺

長谷寺

2018年6月19日
長谷寺(長谷観音)

長谷寺(長谷観音)

2018年1月13日

静岡県焼津市や名古屋市にも長谷川さんゆかりの地が

長谷川氏関係で訪ねたい場所は、まず静岡県焼津市西小川に平蔵の祖先である法栄(前出)の「法永長者屋敷跡」という小川城跡がある。ここは屋敷とはいえ、その周囲に長大で複雑な堀を巡らし、戦闘に対する防御機能を備えた城郭的構造になっていたと思われる。昭和54年からの、小川地区遺跡群発掘調査により、屋敷の周囲に堀をもつ本格的な中世屋敷跡が発見されている。素掘りの堀は幅が15m~16m、深さが1m~2.6mというからまさに城郭。屋敷跡からは陶器や中国産の輸入陶磁器、漆器や曲物など、刀・釣針・古銭、斎串・呪符・人形・舟形などの呪術資料が出土し、往時の繁栄がしのばれる。またその孫の長谷川正長(前出)が開基した焼津市小川の長谷山信香院(静岡県焼津市小川3481-7)には、長谷川正長の墓碑が建っている。この寺は永正14(1517)年秋の暴風雨で大破したのを長谷川正長が支援して再建開基。
家康に仕えた長谷川正長は、元亀3(1572)年の三方原の戦いで、武田勢を相手に奮闘したが討死し、信香院に葬られている。
小川城跡を必死に訪ねても、そこには碑が立っているくらいだから、まずは信香院を目ざすのが長谷川さんにとっても、長谷川平蔵のファンにとっても賢明といえよう。

さらに、かつて長谷川党が大和の武士を代表して春日若宮おん祭に参列していた春日大社や、名古屋市北区如意にある別名・長谷川城と呼ばれる如意城跡、映画俳優の「長谷川一夫の寺」と呼ばれている宇治市六地蔵の極楽寺なども興味深い。京都で生まれた長谷川一夫(本名)も名流の家系である。
このなかで注目なのは名古屋市にある長谷川城の跡(名古屋市北区如意2丁目)。現在は如意山瑞應寺(ずいおうじ)という寺になっているが夢窓疎石の創建と伝えられる寺だから名古屋周辺の長谷川さんは一度出かけてみるのもいいだろう。
南北朝時代に南朝に仕えた越中国(富山県)貴船城の城主・石黒重之の子、石黒重行は1393(明徳4)年、長谷川重行と名乗ってこの地に住んだ。楠の里と呼ばれる一帯は、味美古墳群などがあり古代の尾張国の中心地。

──話を長谷川平蔵に戻せば、平蔵は江戸・赤坂築地中之町に生まれてから、父・宣雄の屋敷替えで、築地鉄砲洲湊町や本所二ツ目などに居を替えるが、自身が火付盗賊改の長官であった組屋敷は、『鬼平犯科帳』では四谷坂町、旗本の系譜や家紋を記した『改定大武鑑』には目白台と記されている。
もし目白台だとすると、そこは護国寺近くの「御手先与力同心大縄地」であったのだろう。そして、中央区佃一丁目あたりが、その昔、人足寄場のあった石川島である。区立佃公園の一角に、古式灯台を模して作ったという石川島灯台があり、灯台脇の看板に、江戸時代の地図入りで人足寄場の由来が記されている。

長谷川姓は新潟で大姓7位、北陸から東北にかけて多く、四国、九州には少ない。
家紋は、秀郷流が三つ藤巴、釘抜、藤丸、八ツ藤。橘氏族は橘や桧扇。他に、丸に立て三つ引両や鷹の羽など。

 

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