3世紀、中国・三国時代の魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)のうち、魏の使節が倭国を訪ねた記録が『魏志倭人伝』。対馬、壱岐を経て九州・末盧國(佐賀県唐津市)に上陸後、陸路、伊都國(福岡県糸島市)、大国の奴國(春日市)を経て、不彌國(ふみこく)に到達します。
不彌國の王都は、糟屋地域説と嘉穂地域説があり、未解明
奴國(福岡県春日市)からは、
「東行至不彌國百里」(東に百里で不彌國に至る)とあります。
距離はあまりあてにはなりませんが、伊都國→奴國と同じ百里です。
糸島市役所〜春日市役所は33kmほど、春日市役所から30km〜40km、車で40分〜50分くらいの距離の場所にある遺跡が候補です。
実は、この不彌國(ふみこく/不弥国)の王都は、まだ特定されていません。
有力なのは「宇美を中心とした糟屋地域説」(福岡県宇美町一帯)と「嘉穂地域説」(福岡県飯塚市)です。
宇美説では、3世紀の糟屋郡内最大の前方後円墳である光正寺古墳が王墓であろうと考えています。
光正寺古墳は宇美町と志免町の境(宇美町光正寺3丁目)にあり、墳丘長54m、糟屋郡内最大の前方後円墳。
出土した土師器甕から、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳で、3世紀後半頃の築造と推測され、『魏志倭人伝』の時代と一致します。
このことから不彌國の王墓ではないかと考える研究者も多いのです。
宇美町(Umi)の名前の由来は、「不彌」(Fumi)からきているという説もあり、それも「宇美を中心とした糟屋地域説」の根拠となっています。
「嘉穂地域説」は、福岡県飯塚市の立岩遺跡群一帯を候補にしていますが、こちらは甕棺墓から前漢時代の銅鏡10面が出土するなど、いかにもそれらしい遺物が出土し、甲乙付けがたい感じになっているのです。
距離的には王墓〜推定王墓が「宇美を中心とした糟屋地域説」だと10kmほどしかなく、近すぎる気もします。
立岩遺跡群だとちょうど35kmと、距離的なイメージにはピッタリとはまる感じです。
ただし、不彌國からは再び「水行二十日」という長い船旅で、投馬國に至っているので、その海路の出発点という点からは飯塚では内陸過ぎるという難点もあります(陸行部分を省いている、あるいは遠賀川を下った可能性もありますが)。
遠賀川の河口は古代の重要な湊なので、「水行二十日」の起点は、遠賀川上流部だったのかもしれません。
邪馬台国の場所に関しては九州説、畿内説が論争され、出雲説など様々な説がありますが、『魏志倭人伝』の行程も奴國までは特定されているので、不彌國の王都がわかることは重要性が高いのです。
奴國は「二萬餘戸」という繁栄する大国でしたが、不彌國は「千餘家」という小国。
それゆえに、解明にもまだまだ時間がかかる可能性があります。
『魏志倭人伝』の旅(6)不彌國の王都へ! | |
所在地 | 福岡県糟屋郡宇美町光正寺3-3-4537-11 |
場所 | 光正寺古墳 |
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