墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)

長良川西岸に建つ墨俣城(すのまたじょう/戦国時代の地名は洲股)。1561(永禄4)年5月の織田信長による美濃侵攻の際に木下藤吉郎(豊臣秀吉)が短期間で築城したため「墨俣一夜城」の名があります。この一夜城跡地に、大垣城の天守を模して建てられたのが墨俣歴史資料館です。

純金の鯱がのる天守がお出迎え

日本で唯一の24金を27kgも使った純金の鯱(しゃちほこ)がのせられた天守は、城下町墨俣のシンボル的存在になっています。
館内では愛知県江南市の旧家に伝わる前野家古文書『永禄洲俣記』(史料としての正確性には諸説あります)に基づいて「墨俣築城への道」を展示し、一夜城の真相を解説。
信長関係の史料として信頼性の高い『信長公記』には、一夜城の記述はなく後世の作り話との説もありますが、『永禄洲俣記』には1万数千本の材木を木曽川へ流し、安全な場所で築城用に加工して現場で3日間で組み立てたと「戦国時代版プレハブ建築」の記録が残されています。

ただし構築されたのは馬防柵など砦的なもので天守ではありません。
しかも『永禄洲俣記』には戦国文書に見かけない語句も混じり後世の贋作との説もあるのです。

今も解明されない「一夜城伝説」の残る一夜城址公園には約1000本の桜が植えられ、春には花見の名所になっています。
また一夜城址公園内の白鬚神社には境内社として秀吉を祀る豊国神社も鎮座しています。
墨俣城の模擬天守閣が築かれた際に、大阪の豊国神社から分霊を勧請して創建したものです。

墨俣一夜城の伝説は、後世の創作だった!?
1566(永禄9)年、織田信長の美濃侵攻に際し、木下藤吉郎が一夜にして築いたという一夜城の伝承は、歴史的には疑問視されることが多いのが現状。
現在では1802(享和2)年に刊行された『絵本太閤記』などの創作ストーリーと推測されているのです。
『絵本太閤記』には、信長の命で、佐久間信盛、次に柴田勝家が墨俣砦の修築を試みますが失敗。そこで、木下藤吉郎は信長に7日のうちに完成すると言上し、馬出し・柵・逆茂木を備えた龍に似たる長城を構築し、金銀を褒美として賜ると記されています。

『信長公記』の巻首「十四条合戦の事」に、「洲股要害の修築を命じ」、「美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う」という記述があるので、木曽川沿いの要衝に位置することから砦的な要害は築かれていたと推測できますが、木下藤吉郎の手柄話には直結しません。

藤本正行氏と鈴木眞哉氏の共著『偽書「武功夜話」の研究』(洋泉社)は、墨俣での築城に参加したという前野小右衛門への蜂須賀小六の書状を「後世の人間が創作した完全な偽文書」と断じていて、『永禄洲俣記』の信憑性を否定しています。

軍記物としては面白い「一夜城伝説」。
時代劇にも登場する一夜城構築シーンですが、史実だったかといえば、今では多くの歴史学者が首を横に振っているのです。

 

墨俣一夜城(墨俣歴史資料館) DATA

名称 墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)/すのまたいちやじょう(すのまたれきししりょうかん))
所在地 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1
関連HP 大垣市
電車・バスで JR岐阜駅・名鉄新岐阜駅から岐阜バス大通方面行きで25分、墨俣下車、徒歩10分
ドライブで 名神高速道路岐阜羽島ICから約7.5km
駐車場 さくら公園駐車場を利用/無料
問い合わせ TEL:0584-62-3322
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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