関ヶ原古戦場・小西行長陣跡

関ヶ原古戦場・小西行長陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、天下分け目の戦い、関ヶ原合戦で西軍の将として布陣。陣を構えたのは、開戦地に近い北天満山で、現在の西田公園あたりが関ヶ原古戦場・小西行長陣跡。北は北国街道、南は中山道を抑えるという要衝で、合戦の火蓋が切られると北天満山から烽火(のろし)が上げられ西軍諸将に知らせました。

朝鮮出兵で先陣として活躍した小西行長は西軍の最前線に

関ヶ原古戦場・小西行長陣跡

豊臣秀吉没後の小西行長は、徳川家康との連絡役となり、家康にも接近していましたが、関ヶ原合戦では石田三成に与し、文治派で西軍の将となって参戦しています。
小西行長の所領は宇土城(現・熊本県宇土市)を中心とする肥後国半国(秀吉は水軍を統率した行長を朝鮮出兵に便利な肥後に配しました)で、残りの肥後を領する加藤清正(尾張国出身の武断派)と朝鮮出兵(文禄・慶長の役)後に対立を深めています。
商人から武士に転じ、秀吉が才を見出した小西行長(朝鮮出兵も先鋒として活躍)ですが、朝鮮出兵では作戦や講和の方針をめぐって加藤清正(武断派)と対立しています。
こうしたことから、武断派が東軍、文治派が西軍という関係になったのです。

実際に北天満山に行くと、山頂は狭く、とても6000の将兵が布陣できるスペースはないので中腹に布陣し、山頂は物見と狼煙台(のろしだい)に使われたのだと推測できます。
8:00に開戦を告げる狼煙を上げると、寺沢広高(てらざわひろたか/唐津城主)、戸川達安(とがわみちやす=宇喜多家のお家騒動で家康配下に)と戦いますが、戦陣が乱れ、小早川秀秋の寝返りで西軍が総崩れとなり、大谷吉継隊が敗れたとの知らせを受けると、天満山を越えて揖斐郡の春日方面へ敗走。

小西行長はキリシタン大名(洗礼名はアウグスティヌス)だったため、自害することができず、関ヶ原の庄屋・林蔵主(はやしぞうす/『改正三河後風土記』には落武者を訴人して賞金を授る悪僧と記されています)を介して自首。
関ケ原領主であった竹中重門(たけなかしげかど=竹中半兵衛の子、関ヶ原合戦では黒田長政軍に合流)の家臣により徳川家康のもとへ送られ、石田三成らとともに京・六条河原で斬首されています(首は晒されましたが、改葬はキリシタンの手によりカトリック方式で行なわれています)。

後に村人らがここに大きな溜め池を設けたため、当時の陣地(小西行長陣)は池の中に没したと『関ケ原合戦図志』に紹介されています。

JR関ヶ原駅を起点に黒田長政・竹中重門陣跡、決戦地、島左近陣跡、石田三成陣跡、小西行長陣跡、開戦地と巡りJR関ヶ原駅に戻る全長5kmほどのコースは1時間30分〜2時間ほどで歩くことができ、岐阜関ケ原古戦場記念館では「黒田長政コース」と呼んでいます。
駅が起終点となったコンパクトなコースで無駄がなく周回できるのでおすすめです(ただし、徳川家康の陣には立ち寄りません)。

関ヶ原古戦場・小西行長陣跡
名称 関ヶ原古戦場・小西行長陣跡/せきがはらこせんじょう・こにしゆきながじんあと
所在地 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
関連HP 関ケ原観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR関ヶ原駅から徒歩18分
ドライブで 名神高速道路関ヶ原ICから約2km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 関ケ原観光協会 TEL:0584-43-1600/FAX:0584-43-0915
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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