福山城は、徳川幕府の西国鎮護の拠点として、福山藩初代藩主・水野勝成(みずのかつなり=徳川家康のいとこ)が、元和5年(1619年)に福山藩10万石の藩庁として、築いた城。慶長20年(1615年)の一国一城令後に築城された近世城郭として貴重。「日本100名城」にも選定されるほか、新幹線の駅に一番近い天守になっています。
例外的に築城を認められた近世城郭で最後の城
水野勝成は、家康と同じ三河国出身で、父の水野忠重は織田信長の配下。
戦国の動乱を生き抜き、大坂の陣で真田信繁が家康の陣を奇襲した際にも活躍をみせ三河国刈谷から大和郡山城主に出世。
元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い備後福山藩主となっています。
一国一城令、そして『武家諸法度』で新規築城が禁止されるなか、瀬戸内海の交通路を重視して福山に城を構えて城下町を整備しています。
しかも5重の天守に7基の3重櫓、長大な多聞櫓を保有し、10万石とは思えない城郭は、譜代大名として西国監視の役割を担っていたから。
山城国には二条城があるという理由により、一国一城令で、元和5年(1619年)に廃城となった徳川家康再建の伏見城から多くの建物を移築しています。
縄張りでは、瀬戸内海から運河を三の丸大手門横まで引き入れて、瀬戸内の交通を支配するような大船団を有していました。
水野家の藩主は5代で終わり、その後天領を経て松平(奥平)家、さらに阿部家と譜代大名の居城となって幕末を迎えています。
長州征討に参加していますが、福山城が長州藩の攻撃を受けて恭順。
その後は新政府軍として箱館戦争にも参加していますが、明治維新後も旧譜代大名との名は残り、明治24年の山陽鉄道(現・山陽本線)開業時にも、三の丸を東西に横断するように線路が敷設され駅舎が造られています。
そのため天守に最も近い新幹線駅となっています(幕府側で最後まで抵抗した越後長岡藩の長岡城は、本丸跡に長岡駅が築かれていますが、城は完全に破却され、市街化されています)。
伏見櫓、筋鉄御門は国の重要文化財
戦前は、本丸の天守と付櫓、筋鉄御門(すじがねごもん)、伏見櫓、御湯殿、鐘櫓の5棟が現存し、鐘櫓を除く4棟が国宝となっていましたが、昭和20年8月8日深夜の福山大空襲で筋鉄御門、伏見櫓、鐘櫓を除く遺構のほとんどが焼失。
天守は昭和41年に再建された復興模擬天守。
天守と同時に月見櫓、御湯殿が復興しています。
さらに昭和48年に鏡櫓が復興。
現存する伏見櫓は、築城の際に、伏見城の「松の丸東櫓」を2代将軍・徳川秀忠が福山城に移築を命じたというもので、国の重要文化財。
本丸の正門に位置する筋鉄御門は、福山駅からの登城ルートの本丸玄関口にあり、国の重要文化財。
現在の福山駅南口に追手御門、その南に外堀、線路沿いに続く駅ナカショッピングセンター「サンステーションテラス福山」は内堀のあった場所。
新幹線のホームあたりに二の丸の入口となる鉄門、四ツ足門がありました。
駅前のバス乗り場は外堀の場所で、福山駅はまさに福山城の玄関口を壊して造られているのです。
三の丸跡西部には「広島県立歴史博物館」が建てられています。
ちなみに、瀬戸内海は干満の差が大きく、干潮時は堀の水が干上がって防衛上の弱点となるため、城下を流れる入川と堀を分断する長さ45m、高さ2〜3mの土手「築切」を築いています(現在の福山市伏見町に築かれていましたが市街化で失われています)。
正保城絵図に見る 福山城
城郭や城下の縄張りは、往時とほとんど変わっていませんが、城の南側、三の丸部分に山陽本線と新幹線が通り、福山駅の駅舎が築かれています。
つまり、大手門(追手御門)はその跡を含めて現存していません(福山駅南口駅前のビルの建つあたり)。
福山城 | |
名称 | 福山城/ふくやまじょう Fukuyama Castle |
所在地 | 広島県福山市丸之内1-8 |
関連HP | 福山城博物館公式ホームページ |
電車・バスで | JR福山駅北口から徒歩5分 |
ドライブで | 山陽自動車道福山東ICから約6.8km |
駐車場 | ふくやま美術館・広島県立歴史博物館駐車場(40台/有料)、ふくやま文学館駐車場(30台/有料) |
問い合わせ | 福山城博物館 TEL:084-922-2117/FAX:084-922-2126 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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