草戸千軒町遺跡

草戸千軒町遺跡

広島県福山市を流れる芦田川(あしだがわ)河口付近の中州とその周辺に位置する中世に繁栄した遺跡が草戸千軒町遺跡。鎌倉時代から室町時代にかけて、付近の三角州で栄えた集落が草戸千軒町で、その存在は長らく幻といわれていました。草戸千軒町は瀬戸内海の交易で繁栄し、明王院の本堂や五重塔の建築にもその財力が関係しています。

町の誕生、消滅の理由は未だ謎!

江戸時代中期に福山藩士が編纂した『備陽六郡志』には、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた町として草戸千軒は記述されていましたが、草戸千軒町に関して具体的な情報は皆無。
その存在が明らかになったのは、大正末から昭和初期で、芦田川の河川工事により、五輪塔などとともに陶磁器や古銭などが多数出土したことによります。

本格的な発掘調査が実施されたのは、昭和36年からで、中世の瀬戸内海に栄えた湊が実際にこの地にあったことが判明したのです。
遺跡からの出土品2930点は、広島県草戸千軒町遺跡出土品として国の重要文化財に。
瀬戸・美濃焼、常滑焼、唐津焼、伊万里焼など国産の陶器・陶磁器などの他、中国産、ベトナム産、朝鮮産の陶磁器も数多く出土し、中国産磁器は17世紀前半(1620~1640年代)のもの。

草戸千軒町遺跡は、現在では川中にあるので、法音寺橋橋上より見学するのが無難。
詳細は、広島県立歴史博物館の草戸千軒展示室「よみがえる草戸千軒」に行くことが賢明です。
「草戸千軒」のを町並みを実物大で復原して、室町時代の初夏の夕暮れを再現。
さらに遺跡から出土した「重要文化財広島県草戸千軒町遺跡出土品」を用途別に展示しています。

ちなみに、『備陽六郡志』には洪水で滅びた町として記述されていますが(「其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし」)、発掘調査の成果から、草戸千軒が町として機能した最終段階は室町時代の16世紀初頭であることが判明しています。
洪水で埋まったような痕跡も発見されていないので、消滅の理由は未だに謎のままなのです。

草戸千軒町遺跡
名称 草戸千軒町遺跡/くさどせんけんいせき
所在地 広島県福山市草戸町1
電車・バスで JR福山駅からタクシーで8分
ドライブで 山陽自動車道福山SAスマートICから約4km。東ICから約11km
駐車場 周辺の有料駐車場などを利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
草戸稲荷神社

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広島県福山市、明王院(みょうおういん)の北側に隣接し、大己貴神(おおなむちのかみ)、宇加之魂神(うかのみたまのかみ)、保食神(うけもちのかみ)を祀る古社。もともとは明王院(創建から江戸時代初期までは律宗の寺・常福寺)を開基した空海(弘法大師

草戸千軒町遺跡

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明王院

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広島県福山市草戸町にある真言宗大覚寺派の古刹、明王院。大同2年(807年)、空海(弘法大師)が、開山したと伝えられています。元応2年(1321年)建立の本堂は本瓦葺き入母屋造り、和様と唐様を用いた和洋折衷で、貞和4年(1348年)築の五重塔

 

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