大久野島・三軒家毒ガス貯蔵庫跡

大久野島・三軒家毒ガス貯蔵庫跡

広島県竹原市、芸予諸島の大久野島は、現在は「うさぎの島」として有名ですが、明治時代には芸予要塞の砲台が築かれ、昭和初期からは秘密裏に毒ガス研究、製造が行なわれ、「地図から消された島」に。製造した毒ガスを貯蔵した施設の跡のひとつが、三軒家毒ガス貯蔵庫跡です。

休暇村大久野島本館近くにある毒ガス貯蔵庫跡

大久野島・三軒家毒ガス貯蔵庫跡

戦後、負の遺産からの脱却を目指して、大久野島国民休暇村(現・休暇村大久野島)が設置され、離島のリゾート地としての転身が図られた大久野島。
その休暇村大久野島が建つ三軒家地区は、実は往時の島の中心部。
戦前の毒ガス製造時にも三軒家毒ガス貯蔵庫などが建っていた場所です。

三軒家毒ガス貯蔵庫では猛毒でびらん性毒ガス「マスタード(イペリット) 」が格納された10tタンク(内部に鉛が張られていました)が設置されていました。

「地図から消された島」大久野島の毒ガス製造

大久野島・三軒家毒ガス貯蔵庫跡
終戦翌年の三軒家地区(現・休暇村大久野島周辺)

昭和2年、島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として、帝国陸軍の管理下となり、数軒あった農家も立ち退きが強いられました。

昭和4年、東京第二陸軍造兵廠火工敞忠海兵器製造所による毒ガスの製造が開始され、昭和20年まで毒ガスの開発、研究が続けられ、最盛期には5000人〜6000人が従事していたといわれています(その多くは学徒動員で収集)。
過酷な労働で、労働者の体調を医者が管理し、毒ガスの影響で体調が悪化すれば労働者を現場から室内の労働へと移動させ、交代しながら現場作業が続けられていました。

昭和6年発行の国土地理院の地図には大久野島は記載がありますが、昭和13年発行の地形図からは島が姿を消しています。

化学戦の実態は慎重に秘匿されたため、昭和59年に報道されるまでは知られることのない存在でしたが、その後の研究で、毒ガス兵器の研究開発は旧陸軍化学研究所(登戸研究所など)、大量製造したのは大久野島、小倉陸軍造兵廠(現・福岡県北九州市小倉北区)製の砲弾・爆弾に充填は東京第二陸軍造兵廠曽根製造所(現・福岡県北九州市)、化学戦の運用、訓練には陸軍習志野学校(現・千葉県習志野市)という役割分担があったことも判明しています。

大久野島・三軒家毒ガス貯蔵庫跡
名称 大久野島・三軒家毒ガス貯蔵庫跡/おおくのしま・さんげんやどくがすちょぞうこあと
所在地 広島県竹原市忠海町大久野島
電車・バスで 大久野島第一桟橋から徒歩10分、大久野島第二桟橋から徒歩15分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
大久野島毒ガス資料館

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大久野島・長浦毒ガス貯蔵庫跡

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