色内大通り

色内大通り

北海道小樽市、「北のウォール街」と呼ばれて繁栄した小樽のメインストリートが色内大通り(いろないおおどおり)。明治32年に国際貿易港に指定され、樺太航路、欧米への航路が開設し、昭和初期にかけて北海道経済の中心地として栄えた小樽。その栄華を色濃く残すのが色内通りで、明治後期~昭和初期に建てられた、古い建物が並んでいます。

「北のウォール街」の面影を今に伝える通り

北は鱗友朝市(りんゆうあさいち)の裏手、手宮地区から南に、臨港線、竜宮通、中央通、日銀通を横切り、於古発川(おこばちがわ)の流れる寿司屋通りまで(旧百十三銀行小樽支店が建っています)が色内大通りです。
「北のウォール街」と称された最盛期の小樽に全国の金融機関の支店などを含め、20以上が集結していました。
昆布や、鰊粕を運んだ北前船(西廻り航路)も大正時代ころまでは賑わいをみせ、北陸の金融機関の支店も開設されたのです。

小樽経済界の拠点となった旧小樽商工会議所(昭和8年築)、旧三井銀行小樽支店(昭和2年築/現在は小樽芸術村の管理)、旧第四十七銀行小樽支店(昭和5年築)、旧塚本商店(大正5年築/第1回小樽市都市景観賞受賞)、旧安田銀行小樽支店(昭和5年築)、作家・小林多喜二が働いていた旧北海道拓殖銀行小樽支店(大正12年築/現・似鳥美術館)、旧岩永時計店(明治30年代築)など木造の商家から威風堂々の石造建築まで、それぞれに趣深い建物が並んでいます。

当時の小樽のメインストリートで、昭和27年までは色内大通りが国道5号でした。

さらに南下して、於古発川・寿司屋通りから入船のメルヘン交差点にかけては、色内大通りではなく、堺町本通が正式名で、小樽堺町通り商店街。
有名な北一硝子三号館もその通りに。

「北のウォール街」とは!?

小樽港から輸出されるものは石炭、穀物、鰊などの海産物、雑貨などでしたが、とくに米や小豆(しょうず=あずき)、大豆などの穀物が貿易の大部分を占めるようになっていきます。
大正3年、第一次世界大戦が勃発により、豆の主産地だったルーマニア、ハンガリーが戦場と化し、豆が高騰。
大正時代、豆の高騰に湧く小樽では、小樽運河周辺には豆撰工場が建ち並んだのです。
当時、豆類、石炭は相場商品として資産運用、そして投機の対象とされていたため、越後国刈羽郡石地村(現・柏崎市)出身の高橋直治(たかはしなおじ)は、全道から13万俵という膨大な量の小豆を買占め、自分の倉庫に貯えて値上がりを待ち、1俵17円の高値で売りさばいたため、ついにはロンドン市場を左右するほどの影響を与えたことから「小豆将軍」と称されました(商品相場といえば小豆という時代でした)。
当時、ロンドンの金融市場(financial market)は、ニューヨークのウォール街(Wall street)と並ぶ世界の金融市場の中心だったので、正しくは「北のファイナンシャル市場」と呼ぶべきなのでしょうが、わかりやすく、「北のウォール街」になったのだと推測できます。

色内大通り
名称 色内大通り/いろないおおどおり
所在地 北海道小樽市堺町
電車・バスで JR小樽駅から徒歩15分
ドライブで 札樽自動車道小樽ICから約3km
駐車場 港湾部前観光駐車場(88台/有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 小樽観光協会 TEL:0134-33-2510
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ