宗谷岬突端の高台に設けられた軍事史跡。明治8年の樺太・千島交換条約(樺太での日本の権益を放棄、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡)で、宗谷海峡は国境となり防備の必要に迫られます。当時、最強と謳われたロシアのバルチック艦隊の動きを察知する必要から建造された監視哨の跡が旧海軍望楼です。
バルチック艦隊の南進を監視した明治時代の望楼

稚内市では現存する唯一の明治時代の建築物で、宗谷岬突端背後の海岸段丘上、宗谷岬灯台の横に位置しています。
現在は観光的に利用され、宗谷岬を見渡す展望台として機能していますが、望楼内部への立入は不可。
望楼上からは宗谷岬「日本最北端の地」地碑を眼下に、晴れていれば対岸のサハリン(樺太)まで一望に。
樺太・千島交換条約
明治8年5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するためにサンクトペテルブルクで署名され、8月22日に東京にて批准され締約された条約。締結の場所からサンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg)とも呼ばれています。
日本とロシアとの国境線は、1855(安政元)年締結の日露和親条約で、千島列島の択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間に確定しましたが、樺太については日露混住の地となっていました。
ロシアの南進政策で、樺太開発が本格化すると、江戸幕府との間に軋轢(あつれき)が生じるように。
箱館奉行・小出秀実は、得撫島から温禰古丹島(オネコタン島)までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言。
幕府は、北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することにしてロシアと交渉しますが、この交渉は不調に終わり、ロシアの樺太進出が進みます。
明治7年、樺太全島をロシア領土とし、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡することでようやく条約が締結されました。
これが樺太・千島交換条約です。
明治政府は、樺太を失う代わりに、千島列島の広大な漁業権などを手に入れたのです。
旧海軍望楼 Old Naval Watchtower | |
名称 | 旧海軍望楼/きゅうかいぐんぼうろう |
所在地 | 北海道稚内市宗谷岬 |
関連HP | 稚内・利尻・礼文観光WEBサイト |
ドライブで | 稚内空港から約23km |
駐車場 | 宗谷岬公園駐車場(72台/無料) |
問い合わせ | 稚内市建設産業部都市整備課 TEL:0162-23-6460 |
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