前田利長公墓所

富山県高岡市にある加賀藩2代藩主・前田利長の墓所。前田利長は高岡城を隠居所として築城。今の高岡の繁栄の祖となる大名です。墓所は2代藩主・前田利常が三十三回忌にあたる1646(正保3)年に造営。1万坪という広大な墓所は金沢市の野田山にある前田家歴代の墓所とともに「加賀藩主前田家墓所」として国の史跡に。

高岡の祖・前田利長の墓所はかなり城郭風だった!?

墓所の周囲に濠(ほり)を巡らせているのは、いざというときの軍事的な配慮から。
江戸時代初めという世相を反映して、瑞龍寺(利長の菩提寺)、瑞龍寺と墓所をつなぐ八丁道などとともに防御機能を有していました。
江戸幕府への配慮から表向きには墓所や参道、菩提寺ですが明らかに東への備えを意識したものです。

往時は1万坪という広大な敷地で、城のように内郭と外郭に分かれていましたが、外郭部は現在、高岡市立芳野中学校のグラウンドや高岡市営前田庭球場のテニスコートなどになっています。

墓所の中心にある前田利長の墓碑は、高さ11.75mの石塔で、武将のものとしては全国一という高さ。

墓所の向かいにある繁久寺(曹洞宗)は、墓を守るために建立された御廟寺。
回廊には五百羅漢が安置されています。

前田利長
加賀藩2代藩主で、加賀前田家2代の前田利家は藩祖・前田利家の長男。1562(永禄5)年、尾張国荒子城(現・愛知県名古屋市中川区)に生誕。
織田信長に仕え、織田信長の娘の永姫(玉泉院)を正室に迎えています。その後、豊臣秀吉の配下となるも、関ヶ原の合戦では東軍に与して戦後、弟・利政(西軍)の能登の七尾城22万5000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3000石を加えて加賀・越中・能登122万5000石を支配する日本最大の藩・加賀藩が成立。その藩主となります。
富山城に隠居しましたが、富山城が焼失したため高岡城を築き、晩年を高岡で過ごしています。
1614(慶長19)年、高岡城で没。
高岡城本丸広場横にある前田利長公像
前田利長公墓所
名称 前田利長公墓所/まえだとしながこうぼしょ
所在地 富山県高岡市関町73
関連HP 高岡市観光ポータルサイト
電車・バスで あいの風とやま鉄道高岡駅から徒歩15分
ドライブで 能越自動車道高岡ICから約5.8km、北陸自動車道高岡砺波スマートIC、小杉ICから約9km
駐車場 瑞龍寺・八丁道第1観光駐車場(27台/無料)
問い合わせ 高岡市観光交流課 TEL:0766-20-1301
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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