茶室麟閣

茶室麟閣

福島県会津若松市、鶴ヶ城公園内にあるのが茶室麟閣。豊臣秀吉の逆鱗に触れ千利休が死罪になると、その養子・千少庵(せんのしょうあん)は蒲生氏郷(がもううじさと/利休七哲の筆頭)の許、会津若松で蟄居しています。その時に建てた茶室が茶室麟閣と伝えられ、福島県の重要文化財に指定されています。

千利休の子、千少庵ゆかりの茶室が現存

会津領主・蒲生氏郷は13歳の時、織田信長の人質になっていますが、その才能から次女・冬姫を娶るまでに昇進。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の天下統一の功績から奥州仕置で、会津42万石(のちに92万石)を与えられ、伊勢から会津に入っています。
町名を黒川から若松に変えたのも蒲生氏郷で、若松という地名は出身地である近江日野の馬見岡綿向神社参道にあった若松の杜に由来しています。
鶴ヶ城という城の名も幼名・鶴千代から。

豊臣秀吉の命で利休の屋敷を取り囲んだのが上杉景勝(うえすぎかげかつ=蒲生氏郷の後に会津を領有)の軍勢だったことも歴史のドラマのひとつです。
会津に蟄居した千少庵は、鶴ヶ城内に茶室麟閣を築き、茶会を催しています。
現存する茶室は、戊辰戦争後、城下に移築保存されたものを、平成2年に鶴ヶ城内へ再度、移築復元したもの。

茶室麟閣では、千少庵を偲びながらの抹茶を薯藷饅頭(じょうよまんじゅう)とともに頂くことができます。
また千少庵の月命日のあたる7日には、会津茶道会の当番流派によるお茶会も開催。

千少庵は、千利休切腹から3年後の文禄3年(1594年)、蒲生氏郷、徳川家康らの取り成しで秀吉の怒りもようやく収まり(秀吉の怒りの原因は今も諸説あり定かでありません)、「少庵召出状」により京に戻ることを許され、大徳寺前にあった利休の茶室を本法寺前に移し、西山の西芳寺に「湘南亭」(湘南亭は現存し、国の重要文化財)を建てて隠居。
千少庵は、三男・千宗旦(せんのそうたん)を大徳寺から還俗(げんぞく=僧侶を俗人に戻すこと)させ、寛永10年頃(1633年)、千宗旦は不審菴(ふしんあん=千利休が大徳寺門前の屋敷につくった四畳半の茶室)を再建しています。

茶室麟閣
名称 茶室麟閣/ちゃしつりんかく
所在地 福島県会津若松市追手町1-1
関連HP 会津若松観光ビューロー公式ホームページ
電車・バスで JR会津若松駅から会津乗合自動車バス鶴ヶ城経由飯盛山行きで15分、鶴ヶ城北口下車、徒歩5分
ドライブで 磐越自動車道会津若松ICから約6km
駐車場 西出丸駐車場(200台)、東口駐車場(129台)、南口駐車場(35台)/有料
問い合わせ 鶴ヶ城管理事務所 TEL:0242-27-4005/FAX:0242-27-4012
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
千利休居士遺蹟・不審菴

千利休居士遺蹟・不審菴

京都府京都市上京区にある表千家流家元の茶室が千利休居士遺蹟・不審菴(せんのりきゅうこじいせきふしんあん)。千利休は、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、天正19年2月28日(1591年4月21日)に聚楽第(じゅらくだい)の聚楽屋敷で切腹させられていますが

西芳寺(苔寺)

西芳寺(苔寺)

苔寺として知られる臨済宗の名刹、西芳寺。寺伝では、聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代に行基が寺にし、その後、空海、法然などが入寺したと伝わります。当時は西方寺と称していたのだとか。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の一つ。拝観は事前

鶴ヶ城公園(若松城)

会津のシンボルともいえる鶴ヶ城(若松城)。本丸、二の丸、三の丸、北出丸、西出丸があり、本丸跡に鉄筋コンクリート造りの天守が再建され、内部は郷土博物館に。本丸、二の丸一帯は国の史跡となり、鶴ヶ城公園として整備されています。「日本100名城」、

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ