常陸国分尼寺跡

古代の常陸国(現在の茨城県)は、大和朝廷の東方支配の前線基地的な役割を担っていたと推測されています。国分寺と同様に741(天平13)年の聖武天皇の詔によって68の国ごとに建立された国分尼寺のひとつが常陸国分尼寺。正式名を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、法華経の功徳をもって、未来成仏を念願としたものです。

全国で唯一、国の特別史跡となった国分尼寺跡

南大門跡から金堂方面の眺め
基壇の残る金堂跡

石岡市の府中小学校の北側にある常陸国分尼寺跡からは発掘調査によって「法華」と墨書銘のある土師器が発見され、一直線上に南大門、中門、金堂、講堂が並んでいたことが判明しています。

礎石や基壇などの遺構が保存され、一帯は史跡公園として整備。
土壇が築かれた金堂跡には、現在10個の礎石が残存し、5間に4間の堂宇のあったことが確認できます。
講堂跡にも土壇が築かれ、24個の礎石が残され、7間に4間の堂宇が確認されています。

瓦類や土器などが出土し、瓦類は常陸国分寺跡出土のものと同形ものもが多いのが特長。
様々な遺物が発掘されている常陸国分尼寺は全国的にも貴重な遺跡で、国分尼寺としては全国で唯一、国の特別史跡の指定を受けています。

石岡市には常陸国の国府、国分寺もあり、部原地区には、寺や官庁で使用したの瓦を焼いた瓦塚窯跡遺跡が存在。
遺跡からは24基の窯跡が発見され、常陸国最大級の古代窯跡として注目されています。

ちなみに常陸国分寺跡は国分尼寺跡の東南500mに位置しているのであわせて見学を。

周囲には回廊が巡らされていました
常陸国分尼寺跡
名称常陸国分尼寺跡/ひたちこくぶにじ
所在地茨城県石岡市若松3-1
関連HP石岡市観光協会公式ホームページ
ドライブで常磐自動車道千代田石岡ICから約5.4km
駐車場10台/無料
問い合わせ石岡市観光課 TEL:0299-43-1111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
常陸国府

古代、茨城は蝦夷征討の前線基地だった

古代、大和朝廷から見た東部・北部の原住民の蔑称が蝦夷(えぞ・えみし)で、律令制度の導入により、常陸国府(ひたちこくふ)は現在の茨城県石岡市(石岡小学校敷地内)に7世紀末頃に築かれています。鹿の子遺跡(かのこいせき/石岡市鹿の子)など武器製造

常陸風土記の丘

常陸風土記の丘

茨城県石岡市は古代の常陸国の中心地。常磐自動車道の建設の際に竪穴住居跡90軒、工房跡10基(鍛冶跡)、長屋状竪穴遺溝2棟が発見された鹿の子遺跡一帯を常陸風土記の丘として整備し、古代家屋復元広場、鹿の子史跡公園、「石岡の歴史」展示室などで楽し

常陸國總社宮

常陸國總社宮

茨城県石岡市にある律令制の始まりとともに常陸国の国府に祀られた古社が、常陸國總社宮。石岡市は古代に常陸国の国府が置かれた地。天平年間の創建という古社で、常陸国中の神々を合祀する社で、茨城県を代表するパワースポットのひとつ。常陸國の総鎮守中央

常陸国衙跡(常陸国府跡)

国衙(こくが)とは古代に国司の勤務した役所のこと。現代風に言い換えれば県庁のような存在。茨城県石岡市にある石岡小学校の校庭など常陸国衙跡の発掘調査では常陸国府の中心地に置かれた役所と倉庫群の跡が発見されています。国府の下には郡衙が置かれてい

常陸国分寺(国特別史跡常陸国分寺跡)

741(天平13)年の聖武天皇の詔によって68の国ごとに建立された国分寺(こくぶんじ)は、正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)といい、常陸国分寺は、752年(天平勝宝4)年の建立。同年5月には百済王族の子孫・

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ