関ヶ原古戦場散策・石田三成コース

石田三成陣跡

西軍の総大将・石田三成は、関ヶ原を一望にできる笹尾山に陣を構え、鶴翼の陣(かくよくのじん)で布陣しています。「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場散策・石田三成コースは、全長9.4km、所要2時間20分のコースで、山中を通るため、やや体力が必要とされる道のりです。

START|岐阜関ケ原古戦場記念館

起点となるのは関ケ原町役場横にある岐阜関ケ原古戦場記念館です。
ここでまずは関ケ原合戦に至る歴史的な背景と、合戦に至る過程、古戦場の全貌などをマスターしておくのがいいでしょう。

岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜県不破郡関ケ原町(関ケ原町役場横)、天下分け目の関ヶ原合戦を解説するミュージアムが、岐阜関ケ原古戦場記念館。関ヶ原古戦場のビジターセンター的な機能を有するだけでなく、教育的視点・体験的要素を重視して、関ヶ原合戦に至る過程を学び、合戦の推

田中吉政陣跡

豊臣秀次の宿老で、家康の生まれた岡崎城下(愛知県岡崎市)の町割りをも行なっている田中吉政。
秀吉没後は家康に接近し、関ヶ原合戦の前哨戦では、黒田長政、藤堂高虎とともに岐阜城に向かう西軍を足止めしています。
黒田長政隊とともに石田三成勢と激突(石田隊の右翼・蒲生郷舎と戦ったという説も)、石田三成の本拠地・佐和山城攻略、そして伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛するという大きな手柄も立て、筑後一国柳川城32万石の国持大名にまで出世しています。

関ヶ原古戦場・田中吉政陣跡

関ヶ原古戦場・田中吉政陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、徳川家康最後の陣跡近くにあるのが、関ヶ原古戦場・田中吉政陣跡。『関原合戦図志』でも、合戦時の田中吉政隊のはっきりとした布陣地はわかっておらず、石田隊に向かって兵を進めた場所ということで「田中吉政陣跡」とされています。北

徳川家康最後の陣跡

当初、関ヶ原の東、石田三成陣取る笹尾山に3kmの桃配山に陣を構えた家康は、劣勢を余儀なくされた合戦の最中に、東軍の動きを確認するために石田三成が陣を構えた笹尾山の東南1kmに位置する陣場野に陣を敷いています。
北国街道沿いの平地で、本陣とするには不利な場所だったと思われますが、背水の陣を敷いて、、鼓舞したのだと推測されています。

関ヶ原古戦場・徳川家康最後の陣跡

東海道本線関ヶ原駅の北側、陣場野公園の一角にあるのが徳川家康最後の陣跡。中山道・関ヶ原宿の東、桃配山に陣を構えた家康は、合戦の最中に、東軍の動きを確認するため石田三成が陣を構えた笹尾山の東南1kmに位置する陣場野に陣を敷いています。家康は最

島津義弘陣跡

関ヶ原合戦で西軍の総崩れの中、中央突破で脱出を図った「島津の退き口」の起点となったのが、島津義弘陣跡。
壕も掘らず、防護の柵も構えず、ここから東軍・騎馬隊に向かって鉄砲を交互に入れ替わりながら撃ち続けました。
敵陣の中央突破を図った島津隊は、当初の1500人のうち、80数名が生きて薩摩に戻っているのです。
1500人という少数精鋭だったのは、本隊は薩摩に残してきたからで、消極的に西軍に与していることがわかります。

関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡

関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、関ヶ原合戦で西軍の総崩れの中、中央突破で脱出を図った「島津の退き口」ゆかりの地が、関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡。小池神明神社の北、すぐ南側に開戦地がある場所で、西軍のほぼ中央に布陣しています。笹尾山に陣取った石田三成隊か

大谷吉継墓

徳川家康とも親しかった大谷吉継ですが、関ヶ原の合戦では義を通し、関ヶ原合戦では一族皆西軍となって戦っています(大谷吉継は、当時ハンセン病=らい病を患い、失明していました)。
小早川軍の離反で敗色が濃厚となった時、家臣・湯浅隆貞(湯浅五助)の介錯で切腹、家臣・湯浅隆貞(湯浅五助)に敵軍に見つからないように埋めることを厳命します。
藤堂高刑に見つかってしまいますが、藤堂高刑は湯浅隆貞の願いを聞き入れて秘匿、家康に追求されるも秘匿を続け、家康はアッパレと槍と刀を与えたという美談が今に伝わっています。

大谷吉継墓(大谷吉隆墓)

関ヶ原古戦場・大谷吉継墓(大谷吉隆墓)

関ヶ原の合戦で、最初に陣を築いた大谷吉継の陣跡から少し北側の山中に大谷吉継墓(墓碑には大谷吉隆と記されています)があります。車道沿いの平塚為広碑から山中へ徒歩15分、大谷吉継の陣跡からなら5分ほど山道を歩いた場所にあります。大谷吉継の首が埋

大谷吉継陣跡

関ヶ原の戦いで、最初に陣を構えたのは、実は大谷吉継で、徳川家康とも懇意で、石田三成にも自粛を促しますが、三成がそれを聞き入れなかったために西軍として陣を構えています。
小早川秀秋の不穏な動きを察知し、松尾山の真正面に陣を定め、空濠を巡らせて山中城(やまなかじょう)といわれるほどの構えで守っています。
大谷吉継率いる大谷軍の敗北は関ヶ原の戦いにおけるの趨勢を決定づけ、西軍潰走の端緒となりました。

関ヶ原古戦場・大谷吉継陣跡

関ヶ原古戦場・大谷吉継陣跡

関ヶ原の戦いで、最初に陣を構えたのは、智将・大谷吉継(おおたによしつぐ=大谷吉隆)。徳川家康とも懇意で、石田三成の挙兵計画にも「無謀であり、三成に勝機なし」と説得しますが、石田三成は聞き入れず、大谷吉継も西軍として参戦。その大谷吉継隊は、関

石田三成陣跡(笹尾山)

伊吹山から派生する尾根の末端に位置する笹尾山の山頂は、関ヶ原を一望にできる展望地で、ここを石田三成の本陣に西軍は鶴翼の陣(かくよくのじん)で布陣。
200m東に二重の柵(馬防柵・竹矢来)を築き、猛者で知られる島左近を左翼に、蒲生郷舎(がもうさといえ)を右翼に配し、総勢6000の兵で、東軍の黒田長政、細川忠興ら1万3000にも及ぶ大軍を相手に激戦を繰り広げます。
石田三成の居城である佐和山城(現・滋賀県彦根市)への街道へも出やすいという地の利があるため、最初から万一を考えていたとする歴史考証家も。

関ヶ原古戦場・石田三成陣跡(笹尾山)

関ヶ原の北西の方角に位置し伊吹山から派生する尾根の末端に位置する笹尾山。国道21号のバイパスは笹尾山トンネルで通り抜けますが、実はこの笹尾山が関ヶ原の戦いで、西軍総大将・石田三成が陣を構えた一等地。山頂は関ヶ原を一望にできる展望地で、ここを

決戦地

関ヶ原合戦でも最大級の激戦が繰り広げられたのが石田三成が陣取る笹尾山を背にする決戦地です。
小早川秀秋の寝返りにより西軍は総崩れとなり、石田隊や島津隊に攻め込む東軍諸隊で、決戦地は埋め尽くされていきます。
優勢となった東軍は、石田三成や諸将の首を狙って石田三成の本陣を目ざします。
石田三成隊も奮戦していますが、東軍に傾いた勢いを止めることはできませんでした。

関ヶ原古戦場・決戦地

関ヶ原古戦場・決戦地

西軍有利な陣形で望んだ合戦(西軍は「鶴翼の陣形」)は序盤、実働部隊としての数で劣る西軍優勢で展開しますが事前に東軍に通じていた小早川秀秋隊の背反を契機に形勢は逆転。西軍の諸将が敗走するなか、関ヶ原合戦でも最大級の激戦が繰り広げられたのが笹尾

黒田長政・竹中重門陣跡/岡山烽火場

竹中半兵衛と黒田官兵衛(「両兵衛」)の息子がふたり揃って陣を構えた場所。
岡山(岡山烽火場)と呼ばれる高台で、黒田長政は6000の兵を率いて布陣し、東軍諸将に開戦を告げる烽火(のろし)を上げています。
黒田長政は西軍主力の石田三成軍と渡り合い、島左近を討ち取る活躍を見せ、関ヶ原合戦随一の功労者となっています。
関ヶ原を含めた美濃国不破郡5000石は、実は秀吉から配された竹中重門の領地で、しかも西軍からの寝返りということもあって、黒田長政監視下の前線に置かれたと推測できます。

黒田長政・竹中重門陣跡

関ヶ原古戦場 黒田長政・竹中重門陣跡

慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で行なわれた天下分け目の関ヶ原合戦。関ヶ原古戦場の岡山(丸山)烽火場にあるのが、黒田長政・竹中重門陣跡。竹中半兵衛と黒田官兵衛(「両兵衛」)の息子がふた

細川忠興陣跡

父・細川幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人(利休七哲のひとり)として名を馳せた細川忠興ですが、会津征伐で留守にした際、石田三成は人質にしようとして妻・玉(ガラシャ)の奪還に向かい、結果としてその命を奪っています。
憎き石田三成の眼前に陣を敷き「越中頭形兜」を被り、5000の兵を率いて黒田長政・竹中重門隊とともに石田三成隊に攻めかかり、壊滅させています。
細川忠興隊は、首級130余をあげるという手柄を立て、東軍の勝利に貢献しています。

関ヶ原古戦場・細川忠興陣跡

関ヶ原古戦場・細川忠興陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、岡山烽火場(黒田長政・竹中重門陣跡)の麓、相川の岸にあるのが、関ヶ原古戦場・細川忠興陣跡。妻・玉(ガラシャ)の命を奪った石田三成の眼前に陣を敷き、「越中頭形兜」を被り、5000の兵を率いて黒田長政・竹中重門隊とともに石

GOAL|岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜関ケ原古戦場記念館が設定する石田三成コースのMAPです。
ダウンロードしてお使いください。

関ヶ原古戦場散策・石田三成コース
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
関ヶ原古戦場・徳川家康コース

関ヶ原古戦場散策・徳川家康コース

「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場で徳川家康の足跡をたどる散策コースが、徳川家康コース。最初に布陣した桃配山(ももくばりやま)から、戦況を好転させるために移動した陣場野の徳川家康最後陣地まで、家康進軍の足跡をたどります。全行程

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