中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻、通称『魏志倭人伝』に記された魏(220年〜265年)の使節の記録。日本では弥生時代の末期、小国家が形成された時代です。朝鮮半島から対馬、壱岐を経て北九州の末盧國(現・松浦=佐賀県唐津市)に上陸した使節は、初めて陸路の移動となり、伊都国(いとこく)を目指します。
「東南陸行五百里」ですが実際には30kmほど
末盧國は現在の佐賀県唐津市あたりにあった古代国家と特定されています。
この末盧國からは、いよいよ九州本土の移動となります。
魏志倭人伝には、
「東南陸行五百里、到伊都國」
(陸上を東南に五百里で伊都國に至る)と記されています。
これまでの海上交通は、いずれの移動区間も千里余という表現で、50km程度でも千里余ということを考えれば、五百里も移動距離にすれば、数十km、現代の車なら1時間程度の距離だと推測できます。
実は、この伊都國は現在の糸島地方(福岡県北西部)で、律令制下の怡土郡(いとぐん)にあたり、その王都は糸島市の三雲・井原遺跡群、曽根遺跡群一帯と特定されています。
三雲南小路王墓(三雲南小路遺跡=日本最古の王墓)、井原鑓溝王墓(井原鑓溝遺跡)など王墓も判明しているのです。
ただし「東南陸行」という記述はまったく当てはまらず、末盧國(佐賀県唐津市)から伊都国(福岡県糸島市)は東北東という位置関係になります。
市役所間を移動すると30kmほど、車で1時間弱という距離なので五百里というのはかなりオーバーな表現になります。
逆に海路50km〜60kmが千里ということを考えると、五百里が30kmというのは「およそ半分」という感覚からすれば、正確といえるのかもしれません。
伊都国の様子に関しては、
「有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐」
1000余戸が暮らしていて、王が存在、皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所なり。
平原遺跡1号墓は、「伊都國女王」の墓!?
福岡県糸島市にある曽根遺跡群の中心が、国の史跡でもある平原遺跡(ひらばるいせき/福岡県糸島市有田1)。
平原遺跡は、弥生時代から古墳時代築造と考えられる5基の古墳で構成され遺跡ですが、弥生時代に築かれた方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)の1号墓からは大型内行花文鏡5面、方格規矩鏡32面、内行花文鏡2面が出土。
ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数は、弥生時代としては日本一となっていて、被葬者が伊都国の王王族だったと推測できます。
1号墓から出土した直径46.5cmという日本一大きな銅鏡「大型内行花文鏡」(おおがたないこうかもんきょう)などを収蔵展示する伊都国歴史博物館も建てられ、レプリカを常設展示しています(
平原遺跡1号墓出土品の一部は「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で国宝)。
平原遺跡1号墓に埋葬された人物は「伊都國の女王」ではないかと推測されています。
副葬品に武器が少なく、ネックレスやブレスレットなどの装飾品が多いこと、中国で女性が身につける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていたからです。
平原遺跡の東側にある日向峠(ひなたとうげ)からは、春と秋に太陽が昇ります(墓に眠る女王の足間に真っ直ぐに差し込みます)。
秋は、毎年10月20日、『神嘗祭』(かんなめさい)前後の早朝、平原遺跡1号墓越しに東の方角を眺めると、ちょうど、日向峠から太陽が昇ります。
つまり、この位置関係で、田植えと稲刈りの時期がわかったということになり、墓の位置もこうした古代の太陽信仰に裏打ちされているのだと推測できます。
女王墓は伊都国の中心集落の西側、南北に延びる丘陵の先端付近に糸島平野を望むような場所に築かれています。
この女王墓の存在は「皆統屬女王國」という『魏志倭人伝』の記述にも一致するので、弥生時代のクニの女王の姿を今に伝える貴重な遺跡ということで、副葬品も国宝になっているのです。
同様に、三雲南小路遺跡も1号甕棺に王が、2号甕棺に王妃を埋葬されていますが、年代的には三雲南小路遺跡の方が古いため、日本最古の王墓と称されています。
王墓が3つも確認できている古代国家は、この伊都国だけ。
古代史好きなら、一度は足を伸ばすべき「古代王国」の遺構です。
『魏志倭人伝』の旅(4)伊都國の王都へ! | |
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