和歌山県和歌山市にある総数900基超もの古墳群が、国の特別史跡に指定される岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)。4世紀末〜7世紀にかけて造られた全国有数の群集墳で、「和歌山は渡来文化の窓口」、そして大和盆地での王権繁栄の基盤だったことを意味していると推測されています。
ヤマト王権は大陸の文化を、紀伊水門経由で受け入れた

古墳群に眠る人々は、文献の記録などから古代豪族・紀氏(きうじ)に関連すると推測されていますが、紀氏の拠点とする紀の川下流域は、河口部がヤマト王権が直接管理する外港として機能した紀伊水門(きのみなと)。
実は大和盆地に栄えたヤマト王権、さらには、畿内にあったとするならばその前身といえる邪馬台国(やまたいこく)が大陸の文化を受け入れ、交流を図ったのは、この紀伊水門が外港で、紀の川(吉野川)を現在の奈良県下市町まで遡り、運河の様相を呈していた大和盆地内の河川(大和川、飛鳥川など)に連絡したのだと推測できます。
7世紀以降は難波津(現在の大阪港)、そして木津川も大和盆地への物資運搬の流通経路となったことは明らかですが、5世紀〜6世紀には紀の川(吉野川)がヤマト王権の設立とともに大陸との玄関口として機能したことは間違いありません。
紀の川河口に近い和歌山市善明寺には、5世紀中頃の鳴滝倉庫群が発掘されていますが、ヤマト王権の倉庫群だと推測できます。
奈良県内の吉野川(紀の川の上流部)には、古墳時代の中期以降、多くの古墳が築かれていますが、ヤマト王権による大陸との活発な交流が行なわれたことの証ともいえるのです。
朝鮮半島の百済、新羅、伽耶(かや)との交渉に際し、ヤマト王権の使節や水軍は紀伊水門から出航し、中国・隋への使節も紀伊水門から旅立っています。
3世紀、邪馬台国が畿内にあったのなら、この紀伊水門が『魏志倭人伝』の魏の使者が上陸した玄関港だったかもしれません。
「ヤマト王権と大陸との密なる関係」を和歌山で学ぶ

岩橋千塚古墳群は、戦後間もない昭和27年に国の史跡の中でも最高クラスの「特別史跡」に指定され、昭和46年に「和歌山県立紀伊風土記の丘」が開園しているのも、こうした「ヤマト王権を支えた渡来文化の窓口」だったという重要性がある遺跡だから。
現在、古墳群のうち、岩橋前山(いわせまえやま)、大日山(だいにちやま)、大谷山(おおたにやま)地区の約500基(約63万平方メートル)が国の特別史跡に指定され、「和歌山県立紀伊風土記の丘」として公開されています。
900基を超えるという日本最大級の古墳群を築くことができたのは、石室の石材となる和歌山特有の青石(結晶片岩)がすぐ近くで入手できたこととともに、自然地形を巧みに利用して墳墓を築く技術があったから。
岩橋千塚古墳群の周辺からは、朝鮮半島製の土器、武器、金・銀・銅などを使った装飾品が数多く出土し、古代の国際文化都市だったことをうかがわせています。
また、岩橋千塚古墳群の1基、和歌山県下最大級の前方後円墳(墳丘長105m)の大日山35号墳(6世紀前半)からは近畿地方の大王墓と共通する埴輪も発見され、ヤマト王権との深い関係性もよくわかります。
大日山70号墳からは、朝鮮半島から伝わった陶質土器や鍛冶道具が出土し、朝鮮半島との深い関係が確認できます。
大陸との活発な交流があったヤマト王権は、中国、朝鮮半島の文化を巧みに取り入れ、日本独自の文化と融合して、奈良時代の天平文化へと昇華していくのです。
大陸文化流入の玄関口となった、紀の川河口、岩橋千塚古墳群を知ることは、「日本の古代を知る近道」ともいえるでしょう。

古代、和歌山はヤマト王権の外港で「渡来文化の窓口」だった!? | |
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