永暦元年(1160年)、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま=静岡県伊豆の国市)に流刑になった源頼朝は、20年を伊豆で過ごしますが治承4年(1180年)、以仁王(もちひとおう)の平氏追討の令旨を受けて挙兵。平家方と激戦を展開し、敗北を喫したのが石橋山古戦場。討死した頼朝軍・佐奈田義忠の霊を弔う佐奈田霊社が建っています。
挙兵した頼朝軍が平家方に敗北した地
治承4年4月9日(1180年5月5日)、平家から迫害されていた以仁王(もちひとおう)は、「最勝親王」を名乗り、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下します(治承・寿永の乱の始まり)。
それに呼応して佐々木定綱、安達盛長、北条時政ら源頼朝軍は、治承4年8月17日(1180年9月8日)、三島神社の祭礼で警備が手薄になる日を狙って韮山で伊豆目代(いずもくだい=伊豆の国主に代わり国を治めた役職)の山木兼隆(やまきかねたか)の館を襲撃、討ち取った後、8月20日、配下の土肥実平(どひさねひら)の本拠である相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)を目ざします。
治承4年8月23日(1180年9月14日)、頼朝軍300騎は石橋山に陣を構え三浦半島を支配する三浦一族の到着を待ちます。
源頼朝は石橋山で前方を平家方・大庭景親(おおばかげちか=相模国の武将)の軍3000余騎、後方を伊東祐親(いとうすけちか=伊豆国・伊東の豪族)の軍300騎に挟まれます。
頼朝方の先陣、佐奈田義忠(さなだよしただ=相模国大住郡・現平塚市真田を本拠とした武将)ら15騎が敵将・俣野景久(またのかげひさ)ら75騎と対戦したのを発端に戦いの火ぶたを切るが、10倍もの敵軍を前に敗走(佐奈田義忠の奮戦は『平家物語』や『源平盛衰記』に記されています)。
源頼朝らは辛くも土肥の椙山(しとどの窟)に逃走し、箱根山から真鶴を経て安房国(千葉県)へと落ちのびます。
佐奈田義忠(真田義忠/『吾妻鏡』、通称与一)はこのとき弱冠25歳。
白葦毛の名馬にまたがり、15騎を率いて大庭景親、俣野景久、長尾新五ら73騎と激戦を展開し、戦士しています。
討ち死にの地に与一塚が築かれ、与一を祀る佐奈田霊社が創建されています。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、建久元年(1190年)、源頼朝は伊豆山権現(走湯山/現・伊豆山神社)・箱根権現(現・箱根神社)・三嶋社(現・三島神社)参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、涙を流しています。
佐奈田霊社下の畑は佐奈田与一と大庭景親が組み打ちした場所といい、ねじり畑と呼ばれています。
佐奈田霊社は、与一が景久と組み討ち中、味方からの問いかけに対し痰(たん)がからんで声が出ず、敵に討たれてしまったという伝承にちなんで、痰、咳、ぜんそく、声に霊験があるといわれています。
佐奈田霊社は神仏習合を色濃く残し、現在も石王山寶壽寺(ほうじゅじ)が管理しています。
JR早川駅〜魚藍大観音〜久翁寺〜早川観音〜紀伊神社〜石橋漁港〜石橋山古戦場・佐奈田霊社〜米神漁港・米神八幡神社〜牧谷川橋〜旧片浦中〜JR根府川駅と歩く「石橋山古戦場・米神漁港コース」(2時間/6.8km)にもなっていて、ウォーキングにも絶好。
名称 | 石橋山古戦場・佐奈田霊社/いしばしやまこせんじょう・さなだれいしゃ |
所在地 | 神奈川県小田原市石橋420 |
関連HP | 小田原市公式ホームページ |
電車・バスで | JR・小田急・箱根登山鉄道・伊豆箱根鉄道小田原駅から石名坂行きバスで石橋下車、徒歩10分 |
ドライブで | 西湘バイパス石橋ICから約800m |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 小田原市観光課 TEL:0465-33-1521 |
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